ポレンタ天国

たぶん読んだ本・見た映画の記録が中心になります

12月に読んだ本

 必要に迫られて、精神分析批評をちょっと齧ることにしました。若いころにも、川本晧嗣ほか編『文学の方法』(東京大学出版会)で批評の実践例を読んだことがあります。「なにいってだこいつ」以外の感想が浮かびませんでした。このたびは大浦康介・編『文学をいかに語るか:方法論とトポス』(新曜社)と、丹治愛『批評理論』(講談社選書メチエ)を繙きました。この三作で精神批評理論を解説しているのは、いづれも山田広昭です。『文学を~』のほうはやはり何が何やらわかりませんでした。『批評理論』のほうは、谷崎潤一郎の『夢の浮橋』をめぐってスリリングな読解が展開されます。『夢の浮橋』を読みたくなりました。とはいえ、これは精神分析批評よりナラトロジーの読みとしておもしろかった。最後のとってつけたような精神分析的な読みは余計でしょう。

 メモを取らなかったので、うろ覚えで書きますと、『文学の方法』では、「ムッシュー・テストと劇場で」で、劇場の柱がファロスの象徴としてだかなんだか、そんな分析だったように思います。

 医学の分野で精神分析はほとんど顧みられないようです。文学研究でいまだにありがたがっている人も少ないのかもしれない。教科書風の本の解説者が同じ人なのもまたそうした事情ゆえでしょうか。イタロ・ズヴェーヴォの『ゼーノ氏の意識』みたく、作品自体が精神分析の影響下にあるなら、それなりに意義深いものになりそうです。

文学の方法

文学の方法

文学をいかに語るか―方法論とトポス

文学をいかに語るか―方法論とトポス

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)


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ダン・レメニイ『社会科学系大学院生のための研究の進め方:修士・博士論文を書くまえに』(同文館出版)

社会科学系大学院生のための研究の進め方―修士・博士論文を書くまえに

社会科学系大学院生のための研究の進め方―修士・博士論文を書くまえに

 11月にななめ読みした本です。これまで私にはアンケート調査の意義がまったくわかりませんでした。これを読むと、経営学の世界ではごくごく一般的な手法であると知れてよかったです。文化の違いですな。働きながら経営学修士号の取得を目指しているけれど、研究方法なんて大学を出てずいぶんになる今となってはとうに忘れている、といった方には役立ちそうです。


日暮聖『近世考:西鶴近松芭蕉・秋成』(影書房)

近世考―西鶴・近松・芭蕉・秋成

近世考―西鶴・近松・芭蕉・秋成

 激やば。興奮しました。江戸や上方に貨幣経済社会が到来した、という視点で読み解くと近世文藝がするする解釈できてしましまいます。本書の存在を知るきっかけは『屋上庭園』(エディション・イレーヌ)所収の書評でした。その点では感謝しておりますが、失礼を承知で言えば、あの書評はちょっとうがち読みにすぎるでしょうね。西鶴近松のいた上方は爛熟退廃というより発展期でしょうし、諸論考の〈眼〉は江戸から隠遁した芭蕉にあるでしょうし。

 近松の『心中宵庚申』は従来、作劇法に難があるとされてきました。ところが、貨幣経済社会が成立したことを背景にすえてみると、見事な筋運びの作品に変貌するんです。なんとアクロバティックな。著者は触れていませんけど、『心中天網島』にもこの視点を掛け合わせてみると、どうなるのでしょうね。


山内博之『OPIの考え方に基づいた日本語教授法』(ひつじ書房)

 編集者の奮起を期待したいものです。まず悪文を何とかしてください。つぎに、根拠をはっきりと示してください。「~ではないかと思われます」が多すぎます。学生のレポートなら不可をくらいますよ。随所にさしはさまれるコラムが読者の知的水準を低く想定しているのも気になりました。内容を圧縮してもっと低価格で販売すべき本だと思います。

 インフォメーション・ギャップをとりいれたり場面依存型のシラバスを導入したりすることに異存はないけれど、それをどうやって体系化するかが肝腎でしょうに、そこがするりと抜け落ちているのも、ね。その点は『まるごと 日本のことばと文化』が具現化していると言えなくないかもしれない。


廣末保『心中天の網島』(岩波書店)

心中天の網島 (古典を読む 3)

心中天の網島 (古典を読む 3)

 私はこの「古典を読む」第3巻で読みましたが、現在入手しやすいのは「広末保著作集」版(影書房)です。
心中天の網島 (広末保著作集)

心中天の網島 (広末保著作集)

 台本を1行1行丹念に読んでいく著者の力量に驚嘆しないわけにはまいりませんが、けっきょくこの戯曲が現代人たるわたくしには難解であることにはかわりませんでした。初演以来再演されなかったのを半世紀近くたって近松半二が改作、さらに歌舞伎になって命脈を保っているわけですから、当時の人にとっても理解がむずかしかったのかもわかりません。そうやすやすと心中させない門左衛門。貨幣経済社会の到来を横軸に解釈できないものかとも、持ち前の悪い頭で考えてみましたが、むりでした。


亀井秀雄「『坊っちやん』:『おれ』の位置・『おれ』への欲望」(『主体と文体の歴史』所収、ひつじ書房)

 著者の「『草枕』」を國文學編集部『知っ得夏目漱石の全小説を読む』(学燈社)で読んで、そのキモさ(ほめことば)に驚愕しました。(『主体と文体の歴史』にも収録されています。)ちょうどNHK-FMの朗読の時間が夏目漱石の『坊っちゃん』でしたから、ふと思いだして『知っ得』を読み返してみると、亀井先生が『坊っちゃん』についての論考も遺しておられることを知って読んだ次第です。『坊っちゃん』を朗読で一気に聞いてみれば、主人公にどうも江戸っ子っぽくない部分があります。人からされた仕打ちをいつまでも根に持っている点などが。それはなぜかと言いますと、あとは亀井先生のご賢察をぜひご覧ください。あいかわらずのキモさ(ほめことば)でした。


«悲劇喜劇»2017年1月号(早川書房)

悲劇喜劇 2017年 01 月号

悲劇喜劇 2017年 01 月号

古今亭志ん輔のウェッブログをひところ熱心に読んでおりまして、そのころを思い出しました。志ん輔師匠の文章は昔も今もたいへん魅力的です。


中村捷・編『人文科学ハンドブック:スキルと方法』(東北大学出版会)

人文科学ハンドブック―スキルと作法

人文科学ハンドブック―スキルと作法

 たぶん高校生を対象に、文学部の研究をさらりと紹介した本です。日本の高校生は、大学で何をするか深く考える機会を持たないままに志望大学、学部学科を決める例がままあるようです。周囲の成人に相談しても頓珍漢な助言しか受けられないことも多いでしょう。こういう本を読んでおけば選択に後悔する人が減るかもしれませんね。

 野家啓一が、人文科学も役に立つとか、人文科学は心を鍛えるとか、書いていて、へえこんな凡庸なことをいう人だったのかと……。沼崎一郎は、とにもかくにも誰でもいいから大学の教員にどんどん会いに行け、と書いていて、これはいいですね。指導教員にすら会わずにドツボにはまっていく大学生がときおりいます。それが私だ。


国際交流基金『初級を教える』(国際交流基金日本語教授法シリーズ第9巻、ひつじ書房)

初級を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ 9)

初級を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ 9)

 別の版元からも同じような叢書がでていますが、私はこちらのほうが好きです。日本語を母語としない日本語教師が主な対象読者ですけど、日本語母語話者も参考にするに足る内容・水準です。まあ、ただ、初級に関して言えば、これまでに読んだ本と大差ありません。導入→文型練習→基本練習→応用練習の順に、とか、コミュニケーション能力を育てる授業設計を、とか。私が見聞きした範囲に限りますと、外国語としての日本語を教える学校の日本語教師はしばしば、①母語でその課の文型をひととおり説明→②学生に教科書の問題を解かせて終わり、でしたから、こういう人たちの手元に本書が届いて授業の改善につながるといいな、と思います。うちの学生はなぜか話せるようにならない、と相談されましても、そりゃそうでしょうよ、としか返しようがありませんから。


筒井清忠・編『新昭和史論:どうして戦争をしたのか』(ウェッジ)

新昭和史論―どうして戦争をしたのか (ウェッジ選書)

新昭和史論―どうして戦争をしたのか (ウェッジ選書)

 編者は近年この手の本を立て続けに出していますね。
解明・ 昭和史 東京裁判までの道 (朝日選書)

解明・ 昭和史 東京裁判までの道 (朝日選書)

 その中でどうしてこれを選んだのかというと、執筆者が戸部良一五百旗頭真北岡伸一山崎正和川本三郎、日暮吉延と豪華な顔ぶれだったからです。版元名を見て、たいへん失礼ながら少し危惧するところなしとしなかったのですが、「特定の制度やはたまた特定の組織の『陰謀』や『共謀』等で歴史を説明しようとするような人は、本書には一人も入っていない」(筒井、2頁)ので、安心して読めました。

 戦前の二大政党制はごく短期間に終わりました。両党とも慢性不況を克服できず、野党は与党のスキャンダルを攻撃するばかりで、政党政治に対する不信感が高まります。同時に、明治以来の国是であった親英米志向の外交方針が特権的な旧支配体制を維持するものとみなされ、攻撃される対象になります。そして、満州事変という事実上のクーデターが起こると、天皇・政党・軍部のバランスが崩れて、集権的な意思決定能力にひびが入りました。この状況で総理大臣に就任したのが重要な局面でことごとく悪手を打つ男・近衛文麿。外交安全保障を国内世論受けの印象論でしか理解していませんでした。また、当時の新聞は中間層と草の根階層が支持基盤でした。煽情主義とナショナリズムに影響されやすいこの階層に訴えるために、政府攻撃と愛国心を主題に据えて、対外強硬の姿勢をとります。

 今世紀の世界でも見たことがあるような気のする光景ですね。

 山崎正和の担当分「第5章 インテリと知識社会の変貌:アカデミズム・ジャーナリズム・ポピュリズム」は編者が大幅に改稿したものです。原テクストは「『インテリ』の盛衰:昭和の知的社会」だそうで、これ、たしか大学入試対策の現代文で問題を解いたはず。岩波文庫発刊の辞から亜インテリ(知的中間層)が学界に対抗心を燃やしていたことを明らかにするくだりはまだ覚えています。若いころの自分は現代文の評論問題や英語の長文問題に知的好奇心を刺激されていたものです。

 勝海舟は大陸の大きさをきちんと認識した発言を『氷川清話』に残しています。どうもこのあたりを理解せずに、かつ事実と願望を区別できない人が昔も今もいますよね。

11月に読んだ本

町田和彦・編『華麗なるインド系文字』(白水社)

華麗なるインド系文字

華麗なるインド系文字

ウィキペディアを眺めていると、「සිංහල」や「မြန်မာဘာသာ」といったかわいらしい文字に出くわすことがあって、何語かしらと思っていました。本書では、ブラーフミー、梵字デーヴァナーガリー、グルムキー、グジャラーティー、ベンガル、オリヤー、シンハラ、チベットビルマ、ラオ、タイ、クメール、テルグ、カンナダ、マラヤーラム、タミルの各文字が対比一覧リストに並べられています。それ等を眺め、書き順を覚え、文字の豆知識を得る、楽しい本でした。教養とは一人で暇つぶしのできる能力のことである、と言ったのは中島らもでしたが、老後の趣味によさそうです。大学に在籍時、マラヤーナム語の授業が開講されていまして、なんとなく、北米少数民族の言語だろうと誤った推測をしておりました。



細川英雄『増補改訂 研究計画書デザイン』(東京書籍)

増補改訂 研究計画書デザイン 大学院入試から修士論文完成まで

増補改訂 研究計画書デザイン 大学院入試から修士論文完成まで

 序文によると、増補部分はもっぱら「この本の読み方・使い方」とコラムのようです。まあ、これが、本書の旧版を読んだことでいかに人生が変わったか、みたいな礼賛ばかりでして……。生活・仕事と「研究」を統合しようぜ、と言われましても、大学を卒業していれば当然のことなのでは? 皆さん毎日せっせとPDCAサイクルを回しておいでですけれど、あれなどは、大学でいえば、仮説→実験(調査)→考察でしょう。大学の学問は役に立たなかった、と公言する人に私は出会ったことがありませんが*1、もしそういうかたがいらしたら、本書は役に立つと思います。「そもそも」にまでさかのぼって解説してありますから。私は応用技術より根本原理を教えてくれる本のほうが好きですけど、この本はちょっと自分に合いませんでした。

*1:私自身は大学で学んだことが役に立っているとはいえ、研究というものに向いていないこともまた確かなのがつらい。

10月に読んだ本

フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『血の婚礼』(未來社)

血の婚礼 (てすぴす双書 49)

血の婚礼 (てすぴす双書 49)

 一般に入手しやすいのは岩波文庫版です。あまりおもしろくなかったです。激情と官能、みたいなありふれた修辞ですませられる程度の作品としか思えませんでした。冒頭から予兆に満ち満ちているのも、古典劇じゃあるまいに、もう二十世紀だったんだぜ、と言いたくなります。じっさいに観劇したらまたちがった感想を持ったのかもわかりませんが。
 文学はある時代の意識や規範の保存装置でもあるわけで、他国の人間が想像するスペイン人を絵に描いたような類型化がされている点ではおもしろかったと言えます。翻訳者が解説で嘆いているのは、日本国に「民衆のための劇」は数あれど「民衆の劇」が根づかないのはどうしてだろうねえ、ということです。そりゃ、「演劇」は西洋から輸入されたもんだからだろう、と言いたくなりますけれど、輸入されてのちに定着したものもたくさんありますね。当時の大学進学率を見れば、知識人と一般大衆の差は今よりずっと大きかったのは一目瞭然ですが、こうしてあらためて文章として読むと新鮮でした。


フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『ベルナルダ・アルバの家』(未來社)

ベルナルダ・アルバの家 (てすぴす双書 42)

ベルナルダ・アルバの家 (てすぴす双書 42)

 『血の婚礼』より楽しめました。フェデリコ・デ=ロベルトの「ロザリオ」をなんとはなしに思い出す発端がよいです。今でいう「認知症」に該当しそうな祖母が出てきます。たぶん「おぞましい」雰囲気を出すために登場するのだと思いますが、女が女を抑圧するけど、抑圧する女もまた社会に抑圧されており、みたいな構図もまた、今となってはありふれていますね。戯曲は舞台を観るのがいちばん、なのでしょう。興津要の本だけで落語を楽し婿とが難しいのと同じ。文学はその時代の規範を保存する装置でもあるわけで、こういう社会だったんでしょうか。

オンラインで自宅学習

 大学受験と言えば、二十世紀末は予備校が駅前のビルを一棟丸ごと使って、その大教室に浪人生がすし詰め、といった印象がありましたが、二十一世紀になりますと、学習塾が雑居ビルのひとつの階を借りたところで現役高校生が専業講師の映像授業を受講ないし大学生の時間給講師に個別指導*1を受ける、が主流になった感がありました。そして二千十年代には、各人が自宅に配信される映像授業を視聴する形式が、有料無料を問わず隆盛しているように思われます。

 ところが、無料で配信していた団体が運営を終了することを告知していました。あんなに華々しく登場したのに。その理由について考察してらっしゃる方がいました。
genuinestudy.seesaa.net
genuinestudy.seesaa.net
真偽のほどは知りませんが、さもありなんとは思います。

 それで、日本語教育の世界でも類似の団体がありますよね。理念も似ています。*2受験産業のほうでは、自宅でのオンライン学習をしかけている勢力が有料無料とも苦戦していると見えるだけに*3日本語教育のほうで成功するのかどうか、気にならなくもないです。学校教育のほうじゃ、アクティブ・ラーニングが支配的ですけど、これとの関係もどうなんでしょうね。*4

 自宅でオンライン学習は難しかろうと思います。根拠は自分の霊感にすぎませんが。何もオンラインでなくとも、昔から通信教育というものがあります。この手の学習は、私同様ぼうっとした人間にはとかく継続が難しいものです。私のささやかな楽しみは、東京外国語大学言語モジュールと大阪大学高度外国語高教育独習コンテンツで外国語を自習することです。けれども。これがなかなか。だらだら続けて三周した言語もあります。それでもやはり初級が完了した気にはなれません。学習塾と予備校のいいところとして、たとえ無理やりであっても規則的に授業を受けなければならない点が挙げられます。しかも確認テストのようなものをさせられて、習得度が測りやすい。

 対面か映像越しかの違いはあれど、教室に通って学習する形態はこれからもまだ必要とされるはずです。


*1:と言いつつ実態は講師一に対し生徒二、もしくは一対三

*2:草創期に講師として出演されていた方が現在は大学を卒業しているらしき点も。関係ないですが、その方は大手広告代理店にお勤めである様子で、なんと申しますか、いかにも、な。

*3:上のウェッブログの方は講師の質が低いとの非難に抗議しておられますが、既存の大手予備校との質の差は否みがたいと思います。これは有料の側も同様で、いわゆる三大予備校のトップ講師が移籍していないことは象徴的に思えます。

*4:直接の関係はないものの、こんなニュースはありました。 スタディサプリ×埼玉県教委、教員向けアクティブラーニング教材開発 | ニュースまとめ「ニュービー」

外国人技能実習生を受け入れる企業の問題点

問題を起こす企業は、過疎地の零細企業である。法違反を摘発し勧告を求めれば企業はほとんどが倒産する。*1

倒産した事業主は新たな受け入れ先を探す必要があると、厚生労働省は明記しています。*2けれども、そう簡単に次の受け入れ先が見つかっていないらしきことは、上の報告書からうかがえます。


上のレポートも本書も旧制度下の話です。

「研修生」という名の奴隷労働―外国人労働者問題とこれからの日本

「研修生」という名の奴隷労働―外国人労働者問題とこれからの日本

「意識を変えるのに効果があるから○○を導入しましょう!」その2

その1はこちら。
pluit-lapidibus.hatenablog.com





経済学的思考vs意識改革。私自身は、何か目的があるなら、わざわざ迂遠な道をとるより最短距離で達成したいと思います。

最近ですと、ベトナムの小学校で日本語が第1外国語になるという報道がありました。*1たかだか週に数時間で外国語が身につくとは到底思えません(ライトバウンほか『言語はどのように学ばれるか』(岩波書店)に、そのような学習法では習得が難しいとあったような)。ところが、外国語を教える職業の人には、これをきっかけにベトナムの生徒が日本に興味を持ってくれるかもしれないからいいじゃないか、とおっしゃるかたもいます。日本における英語学習が英語嫌いを増やしているかもしれないのと同じことを危惧されるかたもいます。賛否を問わず象徴的な意味合いの強い決定だとみなしているわけです。意識改革なら、それこそ『ドラえもん』を無料配布したほうが効果的であろうとおっしゃるかたもいます。

いま要旨を記した議論の流れが、こちらにまとめられています。
d.hatena.ne.jp


ポケットに外国語を (ちくま文庫)

ポケットに外国語を (ちくま文庫)

9月に読んだ本

東京YMCA日本語学校・編『入門日本語教授法』(創拓社)

入門 日本語教授法

入門 日本語教授法

初級文法の分析、留意点と導入の仕方や練習法からなります。斜めに読んだだけなのですが、もう歴史的使命を終えた本じゃないかという気がしないでもないです。初級文法についても導入の絵についても、いまではこれより充実した内容の類書なりウェブ・サイトなりがありますから。


土岐雄三『わが山本周五郎』(文春文庫)

わが山本周五郎 (文春文庫)

わが山本周五郎 (文春文庫)

著者はいまとなっては「埋もれた」作家です。本書をみつけるまで存じませんでした。山本周五郎が売れっ子作家になる前に親しくしていた人たちから見た山本周五郎。山周がまわりの編集者や作家、妻を犠牲にして自分の小説道を邁進していく独善ぶりを描いています。著者は専業作家にならず、銀行員をつづけながらでした。このため、「ふつうで何が悪い」という視点を失わずにすんだようです。もっとも、残業後に帰宅してヒロポンを打ちながらコントを書く人は「ふつう」とは言いがたいかもしれません。


アルステア・マクリーン『女王陛下のユリシーズ号』(ハヤカワ文庫NV)

貧乏性ゆえに大衆小説をあまり読みません。『ガダラの豚』は読みおえるまで一週間もちませんけど、『ニコマコス倫理学』なら二週間以上かかりますから。私の知らない世界でたいへん評価の高い小説と聞いて、読んでみました。もっと若いうちに読んでおけば、それだけいっそう印象に残ったことでしょう。魔法瓶に珈琲を詰めるか分厚いマグにココアを入れるかして再読したいと思います。


林巧『チャイナタウン発楽園行き:イースト・ミーツ・ウエスト物語』(講談社文庫)

子供のころに雑誌の購読にあこがれておりまして、なにか手ごろな雑誌はないものかと思っていたところへ、<<怪(KWAI)>>があるじゃないかと。結局毎号読むにはいたらずに中途でやめてしましたが、その連載に「老林亜洲妖怪譚」がありました。この作者を思い出したきっかけは、管啓次郎の『ホノルル、ブラジル:熱帯作文集』(インスクリプト)です。そのなかで管啓次郎が紹介するしかたがよかった。それが本書の解説だったのです。『世界の涯の弓』という題名の小説がおもしろくないわけないのと同様に、チャイナタウンから広がる世界は楽しいに決まっています。本書はこっちの果てからあっちの果てまで行ったり来たりする紀行文。若いころは行ったことのない、これから行く予定もない土地の文章なんて読んでどうするんだと思っていました。今の私はド・セルヴィ主義者なので、そんな些末なことは気にしません。だいたい、釜石の橋上市場神戸元町高架下に行く交通手段は「読むこと」くらいしかありません。


ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』(NTT出版)

資本主義が嫌いな人のための経済学

資本主義が嫌いな人のための経済学

若かりしころの私は、社会正義の問題など簡単だと考えていた。世界には二種類の人間が――根っからの利己的な人間と、もっと寛大で思いやりのある人間がいるように思われた。世界に不正や苦難があるのは、利己的なやつが自分の利害にかなうよう仕組んだせいなのだ。したがって、この問題の解説法は、もっと思いやりを持つように人々を説得することだ。(346頁)

 私も若いときはそう思っていました。さすがに今は承知しています。たいていのことはすっきりはっきりしていません。そして、勉強すればするほど、ますますわからなくなります。社会科学にうといまま馬齢を重ねることに対して、なんとはなしに恥ずかしさを覚えるようになって、いまさら勉強しはじめました。ほんとうにお恥ずかしいことですが、まあ、すぎてしまったことはしょうがないので、これから精々がんばりたいと思います。

 右派と左派の主張によくある経済学上の迷信がなぜ誤りかを解説してあるわけですが、代表的なものをいくつかここでご紹介します。①まず、減税は経済を刺激しません。「学校や医療への支出が減って、車や家への支出が増えるだけのことだ。」(104頁)②つぎに、国際貿易に勝ち負けはなく、国家間の国際競争力はどうでもいい(これについては、リカードの比較優位あるいは比較生産費説として高等学校の政治経済で学習したような気もします)。③そして、移民は先住者から仕事を奪わない(労働塊の誤謬)。「移民は労働力の供給を増やす一方で、セーの法則で同時に財の需要も増大する(移民の労働力の供給が財の需要を構成するから)。企業はこの需要増に応じるために生産を拡大しなければならず、もっと多くの労働力が必要になる。だから一国の失業率は、その国の人口とは関係ない」(249頁)。*1④それから、ケインズの主張では、「需要はおそらく大不況のどん底で、金利が可能なかぎり下げたときでなければ、刺激する必要はない」。金融緩和だけではどうにも成果が上がらないときにようやく財政出動公共事業をしなさい、ということですかね。となると、今の日本経済もクルーグマンの言うとおり……。⑤あと、企業に課税を強化しても消費者は得しない。どのみち製品やサービスを増税された分だけ値上げしますから。

 「第10章 同一賃金」も考えさせられましたが、*2「第11章 富の共有」も、今夏に相対的貧困をめぐる騒動があったために、つよく印象に残りました。「遅延割引」(本書では「割引関数」)や「双曲割引」と呼ばれる概念を用いて、貧困家庭は資金管理能力を欠くので現金給付は効果が薄いことを説明する章です。ディケンズの小説に出てくる昔ながらの「貧窮」と異なり、豊かな社会では「難治性貧困」が課題になります。

 ある夫婦は洗濯機が壊れたせいで洗濯に月200ドル、ガス代の滞納分400ドルが払えないために外食代を月に200ドル払っています。さらに、オジー・オズボーンのライヴに161ドル、映画のレンタルに月額50ドル、クラフト・フーヅのマカロニ&チーズに100ドル等々。夫曰く、「利口だったら、もっといい暮らしができただろう。…でもね、ただ、家でじっとしてることができなくて、オッケー、この金で夕食に行こうよと言う。それでおしまい。ポケットに一0ドルあって、家にいるのにうんざりしてたら、外に出てアイスクリームと夕食に一0ドル使ってしまうんだ。」(293頁)

 なんとも現実感に満ちた例でして、私のまわりにもこういう人はいます。あるいは程度の差こそあれ、私自身がそうです。*3で、いささか思慮の乏しい人なんて「自己責任」なんだから放っておけ、となって放っておいたら死んでしまう子供がおおぜいでてきて、子供に罪はないだろ、の声が大きくなる。だからと言って、現金を支給しても、このようにたちまち使い果たすことでしょう。そこで、貧困者はもっと情報が必要だ、きちんと教育を受ければ正しい選択をとれるはず。

 けれども、そうは問屋が卸さない。「自分から進んで何も学ぼうとしない人を教育することはできない。情報を与えることはできても、それに注意を払わせることはできない。極度の双曲割引が困るのは、長い目で見た便益を達成するために目先の不利に耐えようとしないことだ。教育を身につけることは、まさしくこうした人たちが受け入れようとしない侵害の典型例である。」(303頁)

 英語が身につかないと嘆く人は思い当たる点がないでしょうか。じゃあ、どうするか。メヒコのオポルチュニダデス計画に代表される施策は、アリとキリギリスの寓話を千回読み聞かせるかわりに、福祉給付に条件を付けます。生活保護手当をもらうためには、子供をきちんと学校に通わせ、ワクチンを接種させ、定期健康診断を受けさせなければならないようにするのです。無駄遣いをなくすために現金給付から配給切符にすると、「スティグマ」が強まる懸念がありますけど、これならその心配はなさそうです。支給条件の設定はなかなか厄介な気もしますが。

 訳者のあとがきによると、本書は2009年にカナダで出版されました。翌年に米国版が刊行され、オーストラリア、ニュージーランドの英語圏、それに、フランス語、スペイン語、韓国語、中国語の翻訳版も出ているそうです。そして、2012年に日本語版、それから、イタリア語、クロアチア語版も待機中(2012年1月時点で)とか。ライトバウンほか『言語はどのように学ばれるか』(岩波書店)もたしか日本語版より中国語、韓国語、ブルガリア語版のほうが先に出版されていました。経済大国のみならず翻訳大国の名称も譲り渡した感があります。

*1:こちらにも似たようなことを書きました。 pluit-lapidibus.hatenablog.com

*2:pluit-lapidibus.hatenablog.com

*3:岸政彦の『街の人生』(勁草書房)で語る野宿者と、トム・ギルの『毎日あほうだんす』(キョートット出版)に登場する日雇い労働者は対照的な性格ですが、貯蓄の苦手な点は共通しています。

街の人生

街の人生

毎日あほうだんす―寿町の日雇い哲学者西川紀光の世界

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