ポレンタ天国

たぶん読んだ本・見た映画の記録が中心になります

2月に読んだ本

映画ですが、アントワーン・フークア監督『マグニフィセント・セブン

映画『マグニフィセント・セブン』予告編


松永澄夫・編『知識・経験・啓蒙【18世紀】』(哲学の歴史6、中央公論新社)

哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって

哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって

厳密な意味における宗教的寛容は、たんに信教の自由ないし良心の自由を認めることではなく、…自分が否認したり嫌悪したりするような宗教的な意見や行為に対して、他人の自由を我慢し許容することを指すのである。(164頁)

宗教的寛容の擁護者も無神論者は敵視する。(同)

ジョン・ロックの章にこのようなことが書いてありました。日本列島在住者のなかには苦手な人も多そうですね。宗教に限らず、こうした寛容さをもちあわせていないと、交渉というものが難しいだろうなと思います。


五味政信ほか編『心ときめくオキテ破りの日本語教授法』(くろしお出版)

心ときめくオキテ破りの日本語教授法

心ときめくオキテ破りの日本語教授法

「コンピューターに負けないために」本書を手に取りました。生きる勇気をもらいました。以下、頭に浮かんだことども。

迫田久美子「第1章 日本語教師は接客業である:学習者を知り、理解することがすべての第一歩」はだめですね。教師に対して未知の言語で授業を体験させる、などはよい試みだと思いますが、最後の着地点が「トイレ掃除」で、どうしてこうなった……。

「第5章 笑う門には福来る:笑いは学習を促進する」を執筆した尾崎由美子氏は、最後の座談で、教科書と生教材とどちらが優れているかに関して、生教材のほうがフレッシュでおもしろいとしたうえで、「教室で使う分には、著作権をあまり気にしないで使えるので、いろいろと自由ですよね」(205頁)と語っています。著作権について誤解があるような……。

「第8章 演じないロールプレイ:もっと自由に楽しく活用してみよう」の渋谷美希氏と「終章 『楽しい日本語授業』の条件とは何か?」の五味政信氏はジェンダーセクシュアリティやそれにまつわる偏見・差別・人権についてちょっと無頓着すぎやしませんかね。「恋愛について扱うことが難しい場合や、LGBT性的少数者)への配慮が必要な場合もあるので、全く違った設定も考えたほうがいいでしょう」(158頁)だの「この学習者はどんな例に登場してもらっても大丈夫、どんな内容の話題を投げかけても大丈夫と教師の側が安心できる学習者がクラスには必ずいるものです」(189頁)などと留保をつければ問題ないのでしょうか。いわゆる「いじり」は受像器の中から広まった行為だと思われますが、教師が学習者に対して行うときの権力構造を意識しない日本語教師

志村ゆかり「第3章 教師は仕掛け人である:工夫次第で学習者のモチベーションがぐんと上がる」や筒井千絵「第4章 制約のなかで戦え:与えられた条件で最大の効果を上げる教師のワザ」、石黒圭「第9章 教師は何もしなくていい:学習者が主体的に学べる環境作り」はたいへんありがたい論考でした。なるべく文脈を与えて練習させたいものです。そして、おおむね二十歳前後の、言ってみれば「いい年した」青年たちが相手なので子供じみた練習を避けたいし、「〇〇ちゃん、すごい、すごい」式の「ほめて伸ばす」もしたくないし。石黒の論考でウィリアム・ジェームズやミハイル・バフチンと出会えたこともうれしかったです。


望月紀子『ダーチャと日本の強制収容所』(未來社)

ダーチャと日本の強制収容所

ダーチャと日本の強制収容所

 ダーチャ・マライーニの『La nave per il Kobe』が拙宅のどこかに埋もれているはずです。著者はイタリアのホロコーストについて、良心的サボタージュがあったように書いていますが、『ライフ・イズ・ビューティフル』……。何を書かないかにも著者の思想がうかがえるものです。私なら京都の被差別部落について触れたかもしれません。


曹乃謙『闇夜におまえを思ってもどうにもならない』(論創社

 『パードレ・パドローネ』を思い出しました。性欲を持て余した貧乏青年たちが登場する点が同じです。解決策はこちらのほうがちょっとした衝撃を受けます。翻訳のかたが下放を見聞しているのもすごい。
www.toho-shoten.co.jp


日本ネパール協会『ネパールを知るための60章』(明石書店)

ネパールを知るための60章 エリア・スタディーズ

ネパールを知るための60章 エリア・スタディーズ

二千年に出た本なので、現在のネパールとはずいぶん違う点が多いかもしれません。特に医療や教育。ネパールの高等教育では、(当時)まだPCがない。そんな状況で応用問題を考えさせようとしても、学生は答えを暗記してしまう。それなら詰め込み教育でまず知識を増やしたほうがよい、との主張にはなるほどと思いました。末の弟の妻が大家族三十人分の食事を用意しなければならず、独立したら仕事がはかどるようになったとか、女性の自立には職業教育が欠かせないとか、こういうところは日本にも当てはまりそうです。登山客の出すごみが問題だから当局は対策をとれ、と当の登山家が注文するのはどうなのか。

1月に読んだ本

«日本語学»2016年11月特大号(明治書院)
www.fujisan.co.jp
 年末に読みました。特集は「手書きの字形を考える」でした。版元のウェッブ・ページによると、「世界言語の中の日本語、史的変遷、言語芸術における特徴など、多彩な視点から日本語研究の最先端を広く一般に紹介。国語教育現場へも実際的・具体的な情報を提供し、研究と教育の橋渡しをする。」*1とあります。特集の記事で、はじめの三つは字体の歴史や指針の紹介としてありがたかったです。残りは随筆ないし意見文とでも呼んだほうが適切のように思われました。投稿規定を読むと、「日本語学、日本語教育学、国語教育学に関する、投稿者独自の新しい知見を含む研究紹介論文」の「採否は、本誌編集委員の審査により決定」すると書いています。特集についてはすべて依頼論文なんでしょうか。参考文献のないものは通常「論文」とみなされないような気がしますが。

 明朝体は活字のために生まれた書体です。もっと手書きの書体に近いものに、教科書体があります。日本語を学習する人のための教科書も、たとえば『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク)などは教科書体で書かれています。ところが、日本語学校で配る仮名の宿題用紙がしばしば明朝体で書いてある。学習者の中には、どちらが正しいのかと悩む人がいます。二千十六年二月に文化審議会国語分科会が報告したし指針*2にしたがえば、こんなものはどちらでもいいわけです。

 私に限らず、三人の読者の皆様におかれましても、初等教育中は漢字の「とめ・はね・はらい」等を厳しく指導された経験をお持ちではないかと思います。この指針によると、字体が同じであれば字形の差異にこだわらなくていいようです。この報告が発表された当初はちょっとした騒ぎになっていたように記憶しています。けれども、実はこの見解は戦後に「当用漢字字体表」が発表されたときから何も変わっていないとのことです。*3なぜか教育現場に周知されないまま現在に至っている、と。いまでも、従来の方針を踏襲し、「とめ・はね・はらい」を厳しく指導して「美しい」漢字の書き方を身につけさせるべく奮闘中の国語教員・日本語教師が大勢いそうです。浸透しなかった理由はなんとなく想像がつかないでもない。日本列島社会に土着の人たちは、行政に対して水戸黄門めいた役割を求めがちですから、当用漢字/常用漢字字体表に「正しい字形」を勝手に見出したとか、こんいちのように電網が普及するまえは、当の資料にこうしてたやすく接するのが難しかったのだろうとか。いずれにせよ、明朝体はもともと印刷のためにつくられた形なのに、それが楷書の正しい形として手書きの規範とさえされつつある、などというのは、「便法がなぜか至上命令と化していく」、と一般化してみると、他の分野でもよく見かける光景です。

 これを書きながらふいに思い出しました。小学校中学年時の担任教員が、「『島』の字は正方形に近く書くときれいなんだよ」と。あれも明朝体が「正しい」と思っていたせいでしょうね。


田原洋樹『ベトナム語のしくみ』(白水社)
 年末に旧版を読みました。

ベトナム語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

ベトナム語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

 全体の見取り図をえたかったので読みました。語彙はもちろんですが、構文も中国語と似ているんですね。でも、ちょっと語順が変わるところもあって。


エドゥアルド・デ・フィリッポ『デ・プレトーレ・ヴィンチェンツォ』(イタリア会館出版部)

エドゥアルド・デ・フィリッポ戯曲集 1 デ・プレトーレ・ヴィンチェンツォ

エドゥアルド・デ・フィリッポ戯曲集 1 デ・プレトーレ・ヴィンチェンツォ

  • 作者: エドゥアルド・デ・フィリッポ,ドリアーノ・スリス,大西佳弥
  • 出版社/メーカー: イタリア会館出版部
  • 発売日: 2012/06
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
「エドゥアルド・デ・フィリッポ戯曲集」第1巻です。全5巻の予定が、残念ながら2巻で頓挫した模様。第1巻の巻末では、以下続刊として『フィルメナ・マルトゥラーノ』、『サニタ地区の❝ゴッドファーザー❞』、『クピエッロ家のクリスマス』、『幽霊たち』が予告されていました。予定を変更して『クピエッロ家…』の出版を前倒ししたけれど……といったところでしょうか。
www.rai.it
附属のDVDにはこちらのテレビ放送版が収録されています。日本語字幕がうれしいじゃねえか。特典映像では制作の舞台裏を垣間見ることができます。


トーマス・ペイン『コモン・センス』(岩波文庫)

コモン・センス 他三篇 (岩波文庫 白 106-1)

コモン・センス 他三篇 (岩波文庫 白 106-1)

 この岩波文庫版が刊行されたのは、千九百七十六年です。それにしては、あるいは、もっとあけすけに言うならば、岩波文庫でありながら、読みやすい訳文でびっくりしました。

社会と政府とを混同してしまって両者の間にほとんど、いな全く区別をつけようとしない著述家たちがいる。…社会はわれわれの必要から生じ、政府はわれわれの悪徳から生じた。(十七頁)

つまり徳行に頼っていては世の中を治めることができないので、政府という様式が必要になったのだ。したがって政府の意図や目的もまたここにあると言える。すなわちそれは自由および安全である。(二十一頁)

聖書のこの個所は簡潔明快だ。…ここで全能の神が王政に抗議したことは事実である。…なおカトリックの国で聖書を民衆に見せないようにしているのは、僧侶の策略と並んで国王の策略も加わっていると信じるに足る理由がある。(三十三頁)

アメリカはヨーロッパのどこかの国が構ってくれなくとも、従来と同じく、いな恐らくそれ以上に繫栄すると思われるからだ。(四十四頁)

イギリスが我々を守った動機が愛情ではなくて打算であることを考えもしないで、またイギリスはわれわれのためにわれわれの敵から守ってくれたのではなく、イギリスのためにイギリスの敵からわれわれを守ったことを考えもしないで、その保護を誇りにしてきた。(四十五頁)

ヨーロッパはわれわれの貿易市場なので、どの国とも偏った関係を結ぶべきではない。(四十九頁)

地球上でアメリカほど恵まれた状態にある国はない。(七十四頁)

今こそ人間の魂にとって試練の時である。夏場だけの兵士や日の当たる時だけの愛国者は、この危機に臨んで祖国への奉仕にしり込みするだろう。しかし今この時に踏みこたえる者は、男女を問わずすべての者から愛や感謝を受けるに値するのだ。暴政は地獄と同様に、容易に征服することはできない。しかしわれわれには戦いが苦しければ苦しいほど、勝利はますます輝かしいという慰めがある。(百十七頁)

以下は、ある人の思い出話である。中国が日本と戦っていた頃、上海の古本屋で『コモン・センス』を見かけたので、ページをめくってみた。そのときとくにアンダーラインを引いた箇所が目についたので、読んでみると、それは次の一節であった。「大陸が永久に島によって統治されるというのは、いささかばかげている。自然は決して、衛星を惑星よりも大きくつくらなかった。」(本書五五ページ)あの悲痛な時代に、恐らくペインは中国の知識人の心の支えになっていたことと思われる。(174・175頁)


吉行淳之介・編『奇妙な味の小説』

編者が記しているとおり、江戸川乱歩の定義から外れた作品が多いです。生島治郎「暗い海 暗い声」は、あ、これがあのときのショート・ショートだったか、と。あとの作品は全部忘れそう。


国際交流基金『文字・語彙を教える』(国際交流基金日本語教授法シリーズ3,ひつじ書房)

文字・語彙を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ)

文字・語彙を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ)

 ほんとうに「書いて覚えるしかない」のか、かねがね疑問でした。学校教育を受けていたときには、漢字にしろ、英単語にしろ、とにかく十回ずつ書く作業が課されたような気がしますが、学習者に興味を持たせたり、体系的に整理させたりしないとなかなか辛かろうと思います。私じしんは、外国語の語彙を増やすことがひどく苦手です。ヨーロッパ言語共通参照枠で言うところのB2レベルに二年間で達するには、漢字を千以上読めるようにしなければならいないでしょうが、そうなるためには自律学習する方法を提示しないといけません。

pluit-lapidibus.hatenablog.com

*1:www.meijishoin.co.jp

*2:常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」 www.bunka.go.jp 三省堂から書籍が刊行されています。

*3:thepage.jp

12月に読んだ本

 必要に迫られて、精神分析批評をちょっと齧ることにしました。若いころにも、川本晧嗣ほか編『文学の方法』(東京大学出版会)で批評の実践例を読んだことがあります。「なにいってだこいつ」以外の感想が浮かびませんでした。このたびは大浦康介・編『文学をいかに語るか:方法論とトポス』(新曜社)と、丹治愛『批評理論』(講談社選書メチエ)を繙きました。この三作で精神批評理論を解説しているのは、いづれも山田広昭です。『文学を~』のほうはやはり何が何やらわかりませんでした。『批評理論』のほうは、谷崎潤一郎の『夢の浮橋』をめぐってスリリングな読解が展開されます。『夢の浮橋』を読みたくなりました。とはいえ、これは精神分析批評よりナラトロジーの読みとしておもしろかった。最後のとってつけたような精神分析的な読みは余計でしょう。

 メモを取らなかったので、うろ覚えで書きますと、『文学の方法』では、「ムッシュー・テストと劇場で」で、劇場の柱がファロスの象徴としてだかなんだか、そんな分析だったように思います。

 医学の分野で精神分析はほとんど顧みられないようです。文学研究でいまだにありがたがっている人も少ないのかもしれない。教科書風の本の解説者が同じ人なのもまたそうした事情ゆえでしょうか。イタロ・ズヴェーヴォの『ゼーノ氏の意識』みたく、作品自体が精神分析の影響下にあるなら、それなりに意義深いものになりそうです。

文学の方法

文学の方法

文学をいかに語るか―方法論とトポス

文学をいかに語るか―方法論とトポス

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)


pluit-lapidibus.hatenablog.com


ダン・レメニイ『社会科学系大学院生のための研究の進め方:修士・博士論文を書くまえに』(同文館出版)

社会科学系大学院生のための研究の進め方―修士・博士論文を書くまえに

社会科学系大学院生のための研究の進め方―修士・博士論文を書くまえに

 11月にななめ読みした本です。これまで私にはアンケート調査の意義がまったくわかりませんでした。これを読むと、経営学の世界ではごくごく一般的な手法であると知れてよかったです。文化の違いですな。働きながら経営学修士号の取得を目指しているけれど、研究方法なんて大学を出てずいぶんになる今となってはとうに忘れている、といった方には役立ちそうです。


日暮聖『近世考:西鶴近松芭蕉・秋成』(影書房)

近世考―西鶴・近松・芭蕉・秋成

近世考―西鶴・近松・芭蕉・秋成

 激やば。興奮しました。江戸や上方に貨幣経済社会が到来した、という視点で読み解くと近世文藝がするする解釈できてしましまいます。本書の存在を知るきっかけは『屋上庭園』(エディション・イレーヌ)所収の書評でした。その点では感謝しておりますが、失礼を承知で言えば、あの書評はちょっとうがち読みにすぎるでしょうね。西鶴近松のいた上方は爛熟退廃というより発展期でしょうし、諸論考の〈眼〉は江戸から隠遁した芭蕉にあるでしょうし。

 近松の『心中宵庚申』は従来、作劇法に難があるとされてきました。ところが、貨幣経済社会が成立したことを背景にすえてみると、見事な筋運びの作品に変貌するんです。なんとアクロバティックな。著者は触れていませんけど、『心中天網島』にもこの視点を掛け合わせてみると、どうなるのでしょうね。


山内博之『OPIの考え方に基づいた日本語教授法』(ひつじ書房)

 編集者の奮起を期待したいものです。まず悪文を何とかしてください。つぎに、根拠をはっきりと示してください。「~ではないかと思われます」が多すぎます。学生のレポートなら不可をくらいますよ。随所にさしはさまれるコラムが読者の知的水準を低く想定しているのも気になりました。内容を圧縮してもっと低価格で販売すべき本だと思います。

 インフォメーション・ギャップをとりいれたり場面依存型のシラバスを導入したりすることに異存はないけれど、それをどうやって体系化するかが肝腎でしょうに、そこがするりと抜け落ちているのも、ね。その点は『まるごと 日本のことばと文化』が具現化していると言えなくないかもしれない。


廣末保『心中天の網島』(岩波書店)

心中天の網島 (古典を読む 3)

心中天の網島 (古典を読む 3)

 私はこの「古典を読む」第3巻で読みましたが、現在入手しやすいのは「広末保著作集」版(影書房)です。
心中天の網島 (広末保著作集)

心中天の網島 (広末保著作集)

 台本を1行1行丹念に読んでいく著者の力量に驚嘆しないわけにはまいりませんが、けっきょくこの戯曲が現代人たるわたくしには難解であることにはかわりませんでした。初演以来再演されなかったのを半世紀近くたって近松半二が改作、さらに歌舞伎になって命脈を保っているわけですから、当時の人にとっても理解がむずかしかったのかもわかりません。そうやすやすと心中させない門左衛門。貨幣経済社会の到来を横軸に解釈できないものかとも、持ち前の悪い頭で考えてみましたが、むりでした。


亀井秀雄「『坊っちやん』:『おれ』の位置・『おれ』への欲望」(『主体と文体の歴史』所収、ひつじ書房)

 著者の「『草枕』」を國文學編集部『知っ得夏目漱石の全小説を読む』(学燈社)で読んで、そのキモさ(ほめことば)に驚愕しました。(『主体と文体の歴史』にも収録されています。)ちょうどNHK-FMの朗読の時間が夏目漱石の『坊っちゃん』でしたから、ふと思いだして『知っ得』を読み返してみると、亀井先生が『坊っちゃん』についての論考も遺しておられることを知って読んだ次第です。『坊っちゃん』を朗読で一気に聞いてみれば、主人公にどうも江戸っ子っぽくない部分があります。人からされた仕打ちをいつまでも根に持っている点などが。それはなぜかと言いますと、あとは亀井先生のご賢察をぜひご覧ください。あいかわらずのキモさ(ほめことば)でした。


«悲劇喜劇»2017年1月号(早川書房)

悲劇喜劇 2017年 01 月号

悲劇喜劇 2017年 01 月号

古今亭志ん輔のウェッブログをひところ熱心に読んでおりまして、そのころを思い出しました。志ん輔師匠の文章は昔も今もたいへん魅力的です。


中村捷・編『人文科学ハンドブック:スキルと方法』(東北大学出版会)

人文科学ハンドブック―スキルと作法

人文科学ハンドブック―スキルと作法

 たぶん高校生を対象に、文学部の研究をさらりと紹介した本です。日本の高校生は、大学で何をするか深く考える機会を持たないままに志望大学、学部学科を決める例がままあるようです。周囲の成人に相談しても頓珍漢な助言しか受けられないことも多いでしょう。こういう本を読んでおけば選択に後悔する人が減るかもしれませんね。

 野家啓一が、人文科学も役に立つとか、人文科学は心を鍛えるとか、書いていて、へえこんな凡庸なことをいう人だったのかと……。沼崎一郎は、とにもかくにも誰でもいいから大学の教員にどんどん会いに行け、と書いていて、これはいいですね。指導教員にすら会わずにドツボにはまっていく大学生がときおりいます。それが私だ。


国際交流基金『初級を教える』(国際交流基金日本語教授法シリーズ第9巻、ひつじ書房)

初級を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ 9)

初級を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ 9)

 別の版元からも同じような叢書がでていますが、私はこちらのほうが好きです。日本語を母語としない日本語教師が主な対象読者ですけど、日本語母語話者も参考にするに足る内容・水準です。まあ、ただ、初級に関して言えば、これまでに読んだ本と大差ありません。導入→文型練習→基本練習→応用練習の順に、とか、コミュニケーション能力を育てる授業設計を、とか。私が見聞きした範囲に限りますと、外国語としての日本語を教える学校の日本語教師はしばしば、①母語でその課の文型をひととおり説明→②学生に教科書の問題を解かせて終わり、でしたから、こういう人たちの手元に本書が届いて授業の改善につながるといいな、と思います。うちの学生はなぜか話せるようにならない、と相談されましても、そりゃそうでしょうよ、としか返しようがありませんから。


筒井清忠・編『新昭和史論:どうして戦争をしたのか』(ウェッジ)

新昭和史論―どうして戦争をしたのか (ウェッジ選書)

新昭和史論―どうして戦争をしたのか (ウェッジ選書)

 編者は近年この手の本を立て続けに出していますね。
解明・ 昭和史 東京裁判までの道 (朝日選書)

解明・ 昭和史 東京裁判までの道 (朝日選書)

 その中でどうしてこれを選んだのかというと、執筆者が戸部良一五百旗頭真北岡伸一山崎正和川本三郎、日暮吉延と豪華な顔ぶれだったからです。版元名を見て、たいへん失礼ながら少し危惧するところなしとしなかったのですが、「特定の制度やはたまた特定の組織の『陰謀』や『共謀』等で歴史を説明しようとするような人は、本書には一人も入っていない」(筒井、2頁)ので、安心して読めました。

 戦前の二大政党制はごく短期間に終わりました。両党とも慢性不況を克服できず、野党は与党のスキャンダルを攻撃するばかりで、政党政治に対する不信感が高まります。同時に、明治以来の国是であった親英米志向の外交方針が特権的な旧支配体制を維持するものとみなされ、攻撃される対象になります。そして、満州事変という事実上のクーデターが起こると、天皇・政党・軍部のバランスが崩れて、集権的な意思決定能力にひびが入りました。この状況で総理大臣に就任したのが重要な局面でことごとく悪手を打つ男・近衛文麿。外交安全保障を国内世論受けの印象論でしか理解していませんでした。また、当時の新聞は中間層と草の根階層が支持基盤でした。煽情主義とナショナリズムに影響されやすいこの階層に訴えるために、政府攻撃と愛国心を主題に据えて、対外強硬の姿勢をとります。

 今世紀の世界でも見たことがあるような気のする光景ですね。

 山崎正和の担当分「第5章 インテリと知識社会の変貌:アカデミズム・ジャーナリズム・ポピュリズム」は編者が大幅に改稿したものです。原テクストは「『インテリ』の盛衰:昭和の知的社会」だそうで、これ、たしか大学入試対策の現代文で問題を解いたはず。岩波文庫発刊の辞から亜インテリ(知的中間層)が学界に対抗心を燃やしていたことを明らかにするくだりはまだ覚えています。若いころの自分は現代文の評論問題や英語の長文問題に知的好奇心を刺激されていたものです。

 勝海舟は大陸の大きさをきちんと認識した発言を『氷川清話』に残しています。どうもこのあたりを理解せずに、かつ事実と願望を区別できない人が昔も今もいますよね。

11月に読んだ本

町田和彦・編『華麗なるインド系文字』(白水社)

華麗なるインド系文字

華麗なるインド系文字

ウィキペディアを眺めていると、「සිංහල」や「မြန်မာဘာသာ」といったかわいらしい文字に出くわすことがあって、何語かしらと思っていました。本書では、ブラーフミー、梵字デーヴァナーガリー、グルムキー、グジャラーティー、ベンガル、オリヤー、シンハラ、チベットビルマ、ラオ、タイ、クメール、テルグ、カンナダ、マラヤーラム、タミルの各文字が対比一覧リストに並べられています。それ等を眺め、書き順を覚え、文字の豆知識を得る、楽しい本でした。教養とは一人で暇つぶしのできる能力のことである、と言ったのは中島らもでしたが、老後の趣味によさそうです。大学に在籍時、マラヤーナム語の授業が開講されていまして、なんとなく、北米少数民族の言語だろうと誤った推測をしておりました。



細川英雄『増補改訂 研究計画書デザイン』(東京書籍)

増補改訂 研究計画書デザイン 大学院入試から修士論文完成まで

増補改訂 研究計画書デザイン 大学院入試から修士論文完成まで

 序文によると、増補部分はもっぱら「この本の読み方・使い方」とコラムのようです。まあ、これが、本書の旧版を読んだことでいかに人生が変わったか、みたいな礼賛ばかりでして……。生活・仕事と「研究」を統合しようぜ、と言われましても、大学を卒業していれば当然のことなのでは? 皆さん毎日せっせとPDCAサイクルを回しておいでですけれど、あれなどは、大学でいえば、仮説→実験(調査)→考察でしょう。大学の学問は役に立たなかった、と公言する人に私は出会ったことがありませんが*1、もしそういうかたがいらしたら、本書は役に立つと思います。「そもそも」にまでさかのぼって解説してありますから。私は応用技術より根本原理を教えてくれる本のほうが好きですけど、この本はちょっと自分に合いませんでした。

*1:私自身は大学で学んだことが役に立っているとはいえ、研究というものに向いていないこともまた確かなのがつらい。

10月に読んだ本

フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『血の婚礼』(未來社)

血の婚礼 (てすぴす双書 49)

血の婚礼 (てすぴす双書 49)

 一般に入手しやすいのは岩波文庫版です。あまりおもしろくなかったです。激情と官能、みたいなありふれた修辞ですませられる程度の作品としか思えませんでした。冒頭から予兆に満ち満ちているのも、古典劇じゃあるまいに、もう二十世紀だったんだぜ、と言いたくなります。じっさいに観劇したらまたちがった感想を持ったのかもわかりませんが。
 文学はある時代の意識や規範の保存装置でもあるわけで、他国の人間が想像するスペイン人を絵に描いたような類型化がされている点ではおもしろかったと言えます。翻訳者が解説で嘆いているのは、日本国に「民衆のための劇」は数あれど「民衆の劇」が根づかないのはどうしてだろうねえ、ということです。そりゃ、「演劇」は西洋から輸入されたもんだからだろう、と言いたくなりますけれど、輸入されてのちに定着したものもたくさんありますね。当時の大学進学率を見れば、知識人と一般大衆の差は今よりずっと大きかったのは一目瞭然ですが、こうしてあらためて文章として読むと新鮮でした。


フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『ベルナルダ・アルバの家』(未來社)

ベルナルダ・アルバの家 (てすぴす双書 42)

ベルナルダ・アルバの家 (てすぴす双書 42)

 『血の婚礼』より楽しめました。フェデリコ・デ=ロベルトの「ロザリオ」をなんとはなしに思い出す発端がよいです。今でいう「認知症」に該当しそうな祖母が出てきます。たぶん「おぞましい」雰囲気を出すために登場するのだと思いますが、女が女を抑圧するけど、抑圧する女もまた社会に抑圧されており、みたいな構図もまた、今となってはありふれていますね。戯曲は舞台を観るのがいちばん、なのでしょう。興津要の本だけで落語を楽し婿とが難しいのと同じ。文学はその時代の規範を保存する装置でもあるわけで、こういう社会だったんでしょうか。

オンラインで自宅学習

 大学受験と言えば、二十世紀末は予備校が駅前のビルを一棟丸ごと使って、その大教室に浪人生がすし詰め、といった印象がありましたが、二十一世紀になりますと、学習塾が雑居ビルのひとつの階を借りたところで現役高校生が専業講師の映像授業を受講ないし大学生の時間給講師に個別指導*1を受ける、が主流になった感がありました。そして二千十年代には、各人が自宅に配信される映像授業を視聴する形式が、有料無料を問わず隆盛しているように思われます。

 ところが、無料で配信していた団体が運営を終了することを告知していました。あんなに華々しく登場したのに。その理由について考察してらっしゃる方がいました。
genuinestudy.seesaa.net
genuinestudy.seesaa.net
真偽のほどは知りませんが、さもありなんとは思います。

 それで、日本語教育の世界でも類似の団体がありますよね。理念も似ています。*2受験産業のほうでは、自宅でのオンライン学習をしかけている勢力が有料無料とも苦戦していると見えるだけに*3日本語教育のほうで成功するのかどうか、気にならなくもないです。学校教育のほうじゃ、アクティブ・ラーニングが支配的ですけど、これとの関係もどうなんでしょうね。*4

 自宅でオンライン学習は難しかろうと思います。根拠は自分の霊感にすぎませんが。何もオンラインでなくとも、昔から通信教育というものがあります。この手の学習は、私同様ぼうっとした人間にはとかく継続が難しいものです。私のささやかな楽しみは、東京外国語大学言語モジュールと大阪大学高度外国語高教育独習コンテンツで外国語を自習することです。けれども。これがなかなか。だらだら続けて三周した言語もあります。それでもやはり初級が完了した気にはなれません。学習塾と予備校のいいところとして、たとえ無理やりであっても規則的に授業を受けなければならない点が挙げられます。しかも確認テストのようなものをさせられて、習得度が測りやすい。

 対面か映像越しかの違いはあれど、教室に通って学習する形態はこれからもまだ必要とされるはずです。


*1:と言いつつ実態は講師一に対し生徒二、もしくは一対三

*2:草創期に講師として出演されていた方が現在は大学を卒業しているらしき点も。関係ないですが、その方は大手広告代理店にお勤めである様子で、なんと申しますか、いかにも、な。

*3:上のウェッブログの方は講師の質が低いとの非難に抗議しておられますが、既存の大手予備校との質の差は否みがたいと思います。これは有料の側も同様で、いわゆる三大予備校のトップ講師が移籍していないことは象徴的に思えます。

*4:直接の関係はないものの、こんなニュースはありました。 スタディサプリ×埼玉県教委、教員向けアクティブラーニング教材開発 | ニュースまとめ「ニュービー」

外国人技能実習生を受け入れる企業の問題点

問題を起こす企業は、過疎地の零細企業である。法違反を摘発し勧告を求めれば企業はほとんどが倒産する。*1

倒産した事業主は新たな受け入れ先を探す必要があると、厚生労働省は明記しています。*2けれども、そう簡単に次の受け入れ先が見つかっていないらしきことは、上の報告書からうかがえます。


上のレポートも本書も旧制度下の話です。

「研修生」という名の奴隷労働―外国人労働者問題とこれからの日本

「研修生」という名の奴隷労働―外国人労働者問題とこれからの日本