ポレンタ天国

たぶん読んだ本・見た映画の記録が中心になります

2月から5月半ばにかけて読んだ本

タイピー 南海の愛すべき食人族たち (シリーズ世界の文豪)

タイピー 南海の愛すべき食人族たち (シリーズ世界の文豪)

記録文学であるかのようでした。読者にとってなじみの薄い事柄を教えることもまた小説の効用ですね。novelの語源はnovella「新奇な」ですから。


フィンランド語は猫の言葉

フィンランド語は猫の言葉

黒田龍之助先生のたのしい推薦書。今も変わらないのかもしれませんが、藝大生の属する社会階級はわたくしのと異なりました。外国で働くことについて著者は冷静ですね。


 昨今、現代イタリア文学はとかく幻想的な作品ばかり翻訳される傾向にあります。これもそのひとつです。光文社古典新訳文庫の短篇集と重複している作品が三つ(「七階」「神を見た犬」「護送隊襲撃」)あるため、どちらを買うべきか悩むかたがいらっしゃるかもしれませんが、どちらも買いましょう。イタリア文学の翻訳出版を支えるのは、あなたがたです。
 「七人の使者」のみ以前に読んだことがある気になりました。あとでたまたま見つけたウェッブ・ページによって思い出せましたが、東京大学出版会の『Piazza』に収録されたのを読んだのでした。
 ところで、ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』といえば、辺境の砦でいつ来るとも知れない敵をひたすら待ち続ける話です。某国には「必要最小限度の自衛力」を標榜する、事実上の軍隊があります。この人たちは(公には)これまでいちども戦争を経験しませんでした。これからもしばらくはないでしょう。たぶんかれらにとっての「仮想敵国」は存在するのだろうと思います。しかし、実際には交戦しないまま退官にいたるわけです。性質から言って臨戦態勢でいつづけなければならないにもかかわらず、いつまでたって戦争は起こらない。それで、「今、そこにある危機」を、はたから見ると大袈裟なほどに信じ込むのかなという気がします。理解はすれども共感はあまりしませんが。まあ、かりにそうだとして、それならなぜ、歴史的事実に対して陰謀論めいた見解を持ってしまうのかは、ちょっと想像がつきません。


この訳書ではドン・マルツィオの肩書が「紳士」とあるだけで何の解説も附されていませんが、齊藤泰弘氏によれば、ドン・マルツィオはナポリ出身となっているけれども実はヴェネツィアの貧困貴族のことであると、当時の観客は了解していたのではないかとのことです。

たとえばその上演当時、ヴェネツィアのとあるコーヒー店の親父が、顧客と四方山話をする中で、「この地区に住む例の貧乏貴族には参ってしまったよ。何のかのと言い掛かりを付けては、僅かなコーヒー代を踏み倒すんだから」と漏らしたとしましょう。この噂はたちまち市内に広まり、ドン・マルツィオを演じる役者の耳にまで届きます。するとその役者は、踏み倒した貴族の仕草や声色まですっかり真似して、ドン・マルツィオを演じるのです。それを見た観客は、「ああ、この人物のもとになったのは例のバルボナーティだ」ということが分かって、劇の楽しみと笑いは倍加するのです。*1


私は新潮文庫版で読みました。谷崎の作品を前にすると無条件にひれ伏すしかありません。解説もそんな感じです。まだ存命中だった大御所にとやかく言えませんよねえ。


鳩の翼(上) (講談社文芸文庫)

鳩の翼(上) (講談社文芸文庫)

鳩の翼(下) (講談社文芸文庫)

鳩の翼(下) (講談社文芸文庫)

この作品を、「背筋が寒くなるくらい、傑作」と評していた人がいたように思います。微に入り細を穿って心理が描写されます。これがまたいいんです。映画も観てみたいものです。


淑やかな悪夢―英米女流怪談集

淑やかな悪夢―英米女流怪談集

失礼ながら、うまいとは言いづらい翻訳がみうけられるのが残念でした。「耳触りのいい声」など。ほかにも、凝った語と平易な文体が合わさってちぐはぐになっているものがありました。

*1:齊藤泰弘「18世紀ヴェネツィア社会と市民生活:カルロ・ゴルドーニの演劇を通じて」≪Italiana≫28号 H14/04/20発行