玉音放送のリスニング問題
八月がやって来た。終わりが間近いとはっきり感じられるようになった。警官たちはほとんど姿を見せない。わたしたちは村まで下りていくようになり、村人のほうも顔を覚えてくれ、友人みたいに挨拶を交わすようになった。暑ければ川に泳ぎにいった。こうして次第に自由な日常の暮しに戻ることができたのは、本当にありがたい。八月七日か八日に広島(廣済寺から五百キロメートル離れている)のニュースを読んだが、当初は新聞もこの惨事について十分な説明ができずにいた。やがて長崎にも原子爆弾が投下される。この辺りにも飛行機が低空を飛んでくるようになり、田畑にいる人に向けて機銃掃射するようになった。八月十五日、男の子がひとり村から駈けてきて、天皇陛下がラジオでお話しになると教えてくれた。そんなことは前代未聞であり、誰もがひどく驚いている。「死ぬまで戦うようにと仰るのさ」警官のひとりが力なくうそぶいたが、単に体面を保とうとしてそう言ったようにしか聞こえなかった。
このとき実に奇妙なことがあった。天皇の演説(それは事実上の降伏宣言だった)を、そこにいた日本人の誰ひとり理解できなかったのである。実際、詔書は日常語とかけ離れた宮廷語で書かれており、それは言語学者でなければ理解できない言葉だった。したがって警官たちは、夕方まで――夕方には新聞が届き事態が明らかになった――わたしたちに外出を認めようとしなかった。その晩、月明かりのもと、わたしたちはついに自由の喜びをかみしめたのである。警官たちは挨拶もなく忽然と姿を消した。こちらに「合わせる顔がなかった」のだろう。*1
フォスコ・マライーニはイタリア出身の文化人類学者で、千九百三十八年に来日、北海道帝国大学でアイヌ民族研究に従事したあと、四十年より京都帝国大学でイタリア語を教授します。四十三年にイタリア王国が降伏すると、サロ共和国への忠誠を拒んだため、名古屋市天白の捕虜収容所へ送られました。収容所では支給されるはずの食糧を看守たちが横流ししており、苛酷な状況だったようです。四十五年三月の大空襲があってから郊外の廣済寺に移され、そこで玉音放送を聞きました。
読みあげられたのは漢文訓読体で書かれた文章でしたから、耳で聴いて理解するのに骨が折れたとしてもおかしくない。とはいえ、教育勅語などは暗誦させられていたんじゃなかったか。内容はよくわからないままに口が覚えていたのかもしれません。あと、当時の新聞も(現代の新聞と同様に)口語体じゃなかったはずですが、新聞の文体よりさらにむずかしい言葉づかいだったことも想像に難くありません。また、この書き方ですと、フォスコ・マライーニ自身も理解できなかったように読めます。当時どのくらい日本語を解したのか知りませんけど。
いっぽうで、高見順の『敗戦日記』を読むかぎり*2、高見は玉音放送を聞き取れていたようですから、受けた教育の差ですかね。
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