親の責任を問う日本の特殊性
「世間さまが許さない!」案件。
法的には無罪であっても、道徳的に責任があるということがあります。国家が法的に罪を追及するとしたら、道徳的に責任を追及するのはいわば共同体です。その意味で、道徳は、共同体が存続するための規範であるということができます。…他国と比較してみると、日本のケースがかなり特異なものだということがわかります。(21・22頁)
アメリカ人で、子供がそういうことをやって、母親が無実の罪だと言ったときに、その親が無責任だと言う人はいない。息子が重大な罪を犯して、親がそれを弁護しようとしたら、それは当たり前だと思われて、特別変だとも、無責任だとも思われない。皆がよってたかって親を責めるということは、まずないと思います。(23頁)
子供がやったことになぜ親が「責任」をとるのか。その場合、誰に対する責任なのか。それは「世間」といったものに対してです。罪を犯した子供はそれなりに処罰されますし、その親もそのことで十分に苦しみ、罰を受けている。被害者の親が怒りを禁じえないというのはわかりますが、なぜ「世間」が――現実にはジャーナリズムが――、その怒りを代弁するのでしょうか。もしその結果として、非難攻撃された親が自殺したとして、そのことに「世間」は責任をとるのでしょうか。「世間」というのは曖昧模糊としたものです。はっきりした主体がない。誰かが親を追及しようとすると、その人は自分はともかく、「世間が納得しない」からだというのでしょう。(25頁)
友情が存在するためには「自己」がなければならない。しかし、その「自己」がないのです。中心は「世間」であって、それを彼らは恐れている。だから、彼らは孤立を恐れて仲むつまじく付き合いますが、ほんのうわべだけです。根本的にはエゴイスティックであるのに、「自己[エゴ]」がない。(32頁)
他人と親密に付き合うが「友情」のような深い関係はもたない。彼らは天下国家に何が起ころうと、関心がないし、何もしない。自分たちの年貢さえひどくなければ、自分の土地さえ守られれば、何が起ころうとしたことではない。ただ、「世間」をおそれ、基準からずれないようにしている。(33頁)
引用はすべて、柄谷行人『倫理21』(平凡社ライブラリー)からです。二千三年の刊行で、親本は千九百九十九年に出版されました。本書ではこのあと、円地文子の『食卓のない家』という小説に言及します。これは、息子が連合赤軍のような事件でつかまったけれども、父親は「世間」の非難にもかかわらず会社を辞職せず、「世間」とたたかう話です。
日本でしか見られないから日本社会はおかしい、となってしまっては論理の飛躍でしょうね。まず、世間さまの存否を全世界で調べた人はいません。柄谷はさすがにいわゆる「出羽守」ではなかろうと思いたいところですし、価値相対主義を否定する人でもなかろうと思っています。この状況を変えたい人はどうするべきか。さしあたり友人知人を説得しつづける、くらいしか思いつきません。あとはこの本を読んでもらう、とかですかね。
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