ポレンタ天国

たぶん読んだ本・見た映画の記録が中心になります

1月に読んだ本

«日本語学»2016年11月特大号(明治書院)
www.fujisan.co.jp
 年末に読みました。特集は「手書きの字形を考える」でした。版元のウェッブ・ページによると、「世界言語の中の日本語、史的変遷、言語芸術における特徴など、多彩な視点から日本語研究の最先端を広く一般に紹介。国語教育現場へも実際的・具体的な情報を提供し、研究と教育の橋渡しをする。」*1とあります。特集の記事で、はじめの三つは字体の歴史や指針の紹介としてありがたかったです。残りは随筆ないし意見文とでも呼んだほうが適切のように思われました。投稿規定を読むと、「日本語学、日本語教育学、国語教育学に関する、投稿者独自の新しい知見を含む研究紹介論文」の「採否は、本誌編集委員の審査により決定」すると書いています。特集についてはすべて依頼論文なんでしょうか。参考文献のないものは通常「論文」とみなされないような気がしますが。

 明朝体は活字のために生まれた書体です。もっと手書きの書体に近いものに、教科書体があります。日本語を学習する人のための教科書も、たとえば『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク)などは教科書体で書かれています。ところが、日本語学校で配る仮名の宿題用紙がしばしば明朝体で書いてある。学習者の中には、どちらが正しいのかと悩む人がいます。二千十六年二月に文化審議会国語分科会が報告したし指針*2にしたがえば、こんなものはどちらでもいいわけです。

 私に限らず、三人の読者の皆様におかれましても、初等教育中は漢字の「とめ・はね・はらい」等を厳しく指導された経験をお持ちではないかと思います。この指針によると、字体が同じであれば字形の差異にこだわらなくていいようです。この報告が発表された当初はちょっとした騒ぎになっていたように記憶しています。けれども、実はこの見解は戦後に「当用漢字字体表」が発表されたときから何も変わっていないとのことです。*3なぜか教育現場に周知されないまま現在に至っている、と。いまでも、従来の方針を踏襲し、「とめ・はね・はらい」を厳しく指導して「美しい」漢字の書き方を身につけさせるべく奮闘中の国語教員・日本語教師が大勢いそうです。浸透しなかった理由はなんとなく想像がつかないでもない。日本列島社会に土着の人たちは、行政に対して水戸黄門めいた役割を求めがちですから、当用漢字/常用漢字字体表に「正しい字形」を勝手に見出したとか、こんいちのように電網が普及するまえは、当の資料にこうしてたやすく接するのが難しかったのだろうとか。いずれにせよ、明朝体はもともと印刷のためにつくられた形なのに、それが楷書の正しい形として手書きの規範とさえされつつある、などというのは、「便法がなぜか至上命令と化していく」、と一般化してみると、他の分野でもよく見かける光景です。

 これを書きながらふいに思い出しました。小学校中学年時の担任教員が、「『島』の字は正方形に近く書くときれいなんだよ」と。あれも明朝体が「正しい」と思っていたせいでしょうね。


田原洋樹『ベトナム語のしくみ』(白水社)
 年末に旧版を読みました。

ベトナム語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

ベトナム語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

 全体の見取り図をえたかったので読みました。語彙はもちろんですが、構文も中国語と似ているんですね。でも、ちょっと語順が変わるところもあって。


エドゥアルド・デ・フィリッポ『デ・プレトーレ・ヴィンチェンツォ』(イタリア会館出版部)

エドゥアルド・デ・フィリッポ戯曲集 1 デ・プレトーレ・ヴィンチェンツォ

エドゥアルド・デ・フィリッポ戯曲集 1 デ・プレトーレ・ヴィンチェンツォ

  • 作者: エドゥアルド・デ・フィリッポ,ドリアーノ・スリス,大西佳弥
  • 出版社/メーカー: イタリア会館出版部
  • 発売日: 2012/06
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
「エドゥアルド・デ・フィリッポ戯曲集」第1巻です。全5巻の予定が、残念ながら2巻で頓挫した模様。第1巻の巻末では、以下続刊として『フィルメナ・マルトゥラーノ』、『サニタ地区の❝ゴッドファーザー❞』、『クピエッロ家のクリスマス』、『幽霊たち』が予告されていました。予定を変更して『クピエッロ家…』の出版を前倒ししたけれど……といったところでしょうか。
www.rai.it
附属のDVDにはこちらのテレビ放送版が収録されています。日本語字幕がうれしいじゃねえか。特典映像では制作の舞台裏を垣間見ることができます。


トーマス・ペイン『コモン・センス』(岩波文庫)

コモン・センス 他三篇 (岩波文庫 白 106-1)

コモン・センス 他三篇 (岩波文庫 白 106-1)

 この岩波文庫版が刊行されたのは、千九百七十六年です。それにしては、あるいは、もっとあけすけに言うならば、岩波文庫でありながら、読みやすい訳文でびっくりしました。

社会と政府とを混同してしまって両者の間にほとんど、いな全く区別をつけようとしない著述家たちがいる。…社会はわれわれの必要から生じ、政府はわれわれの悪徳から生じた。(十七頁)

つまり徳行に頼っていては世の中を治めることができないので、政府という様式が必要になったのだ。したがって政府の意図や目的もまたここにあると言える。すなわちそれは自由および安全である。(二十一頁)

聖書のこの個所は簡潔明快だ。…ここで全能の神が王政に抗議したことは事実である。…なおカトリックの国で聖書を民衆に見せないようにしているのは、僧侶の策略と並んで国王の策略も加わっていると信じるに足る理由がある。(三十三頁)

アメリカはヨーロッパのどこかの国が構ってくれなくとも、従来と同じく、いな恐らくそれ以上に繫栄すると思われるからだ。(四十四頁)

イギリスが我々を守った動機が愛情ではなくて打算であることを考えもしないで、またイギリスはわれわれのためにわれわれの敵から守ってくれたのではなく、イギリスのためにイギリスの敵からわれわれを守ったことを考えもしないで、その保護を誇りにしてきた。(四十五頁)

ヨーロッパはわれわれの貿易市場なので、どの国とも偏った関係を結ぶべきではない。(四十九頁)

地球上でアメリカほど恵まれた状態にある国はない。(七十四頁)

今こそ人間の魂にとって試練の時である。夏場だけの兵士や日の当たる時だけの愛国者は、この危機に臨んで祖国への奉仕にしり込みするだろう。しかし今この時に踏みこたえる者は、男女を問わずすべての者から愛や感謝を受けるに値するのだ。暴政は地獄と同様に、容易に征服することはできない。しかしわれわれには戦いが苦しければ苦しいほど、勝利はますます輝かしいという慰めがある。(百十七頁)

以下は、ある人の思い出話である。中国が日本と戦っていた頃、上海の古本屋で『コモン・センス』を見かけたので、ページをめくってみた。そのときとくにアンダーラインを引いた箇所が目についたので、読んでみると、それは次の一節であった。「大陸が永久に島によって統治されるというのは、いささかばかげている。自然は決して、衛星を惑星よりも大きくつくらなかった。」(本書五五ページ)あの悲痛な時代に、恐らくペインは中国の知識人の心の支えになっていたことと思われる。(174・175頁)


吉行淳之介・編『奇妙な味の小説』

編者が記しているとおり、江戸川乱歩の定義から外れた作品が多いです。生島治郎「暗い海 暗い声」は、あ、これがあのときのショート・ショートだったか、と。あとの作品は全部忘れそう。


国際交流基金『文字・語彙を教える』(国際交流基金日本語教授法シリーズ3,ひつじ書房)

文字・語彙を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ)

文字・語彙を教える (国際交流基金日本語教授法シリーズ)

 ほんとうに「書いて覚えるしかない」のか、かねがね疑問でした。学校教育を受けていたときには、漢字にしろ、英単語にしろ、とにかく十回ずつ書く作業が課されたような気がしますが、学習者に興味を持たせたり、体系的に整理させたりしないとなかなか辛かろうと思います。私じしんは、外国語の語彙を増やすことがひどく苦手です。ヨーロッパ言語共通参照枠で言うところのB2レベルに二年間で達するには、漢字を千以上読めるようにしなければならいないでしょうが、そうなるためには自律学習する方法を提示しないといけません。

pluit-lapidibus.hatenablog.com

*1:www.meijishoin.co.jp

*2:常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」 www.bunka.go.jp 三省堂から書籍が刊行されています。

*3:thepage.jp