ポレンタ天国

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法律上・契約上の根拠がないのに「説明責任を果たせ」と言うような暴論

 この「説明責任」という用語は、マスコミ関係者に限らず日本で広く濫用されているものですが、これは、日本人の「ルール感覚欠如」を端的に示す典型例のひとつです。
 日本将棋連名の理事会に「そうした責任がある」(説明する義務がある)という根拠は、いったいどこにあるのでしょうか。あらゆる人には、憲法によって「自由」が保障されているのですから、あることを「する責任」や「しない責任」を負うのは、「法令で義務とされている」か、「契約(任意で加入した団体のルール等も含む)で義務とされている」場合のみです。
 そうした根拠がないのに、安易に「説明責任がある」などと主張するのは、明らかに憲法が保障する「自由」を侵害しようとしていますが、憲法ルールを無視した「説明責任」の濫用は、日本のマスコミに共通する問題です。
 これまで私が議論したジャーナリストの多くは、「説明責任」の根拠についての説明に困ると、苦し紛れに「法律上・契約上の根拠はなくても、道義的責任がある」と主張するのが常でした。しかし、憲法にはいかなる「共通の道義」も規定されてはいません。それは、思想・信条・良心・価値観・倫理観などに属するものであって、憲法は「自由だ」と規定しています。「道義的責任がある」などと主張する人は、要するに「私の倫理観に反している」と言っているだけなのです。*1

というわけでして、「説明責任」でニュース検索してますと、❝説明責任を果たせ❞ ですとか、❝【名詞】に説明責任がある❞ ですとかが表示されます*2が、本当にそうなのかどうか、ちょっと考えてみてもよさそうです。同じような言い回しで、俗に言う「主語が大きい」事例に含まれるものに、❝国民が納得しない❞ もありますね。それは世論調査した結果を受けてのご発言なのでしょうか、っと。法的に問題ない事柄についてそもそも国民=世間=私に説明する義務など生じないのに説明責任を果たせと言われるわ、したらしたで説明が二転三転しただのと判定されるわ、しかも、もとはと言えば敵愾心や差別意識から引き起こされたのに、そこには目をつぶる人たちから危機対応能力が低いと評価されるわ、逆の立場だったらあいつらはもっとひどく非難していたはずだとわざわざ仮定した条件のもとでくさされるわで、まあ、たいへんですね、とは。諺に「理屈と膏薬はどこへでもつく」とあるように、人間が論理的と思っているものが、まず嫌いという感情があって、そこに理由づけをしただけだけにすぎないこともしばしばあります。その感情を納得させるための理屈を探し求める旅に出ることも。実体としての世間さまは今どういった雰囲気なんでしょうかね。ご存知のとおり、仮想空間では声の大きな人が実際以上によく目立ちますから、そこからだけで時勢を感じとったり、社会の風潮を読みとったりする愚は慎みたいものです。


世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書)

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pluit-lapidibus.hatenablog.com

*1:【メディア評価】岡本薫氏 第3話「根拠なき"説明責任"の濫用」 www.genron-npo.net

*2:“説明責任が求められる”などといった、一風変わった表現も見受けられます。