ポレンタ天国

たぶん読んだ本・見た映画の記録が中心になります

7月に読んだ本・見た映画

前田勉(2018)『江戸の読書会:会読の思想史』([平凡社ライブラリー]平凡社)
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「学問は他の稽古事とちかひ不面白事に候故、自然懈怠に及候輩も有之候様被聞召候」(180頁)「(講釈の日に)生徒ハ大半睡眠セリ」「(会読の日は)口頭ニ勝ヲ争フ」(183頁)
「教師の側から言えば、講釈よりも会読のほうが有益だと考えても、学生たちは安易な聞くだけの講釈に流れていたのである。予習と発表を強いられる演習ゼミを嫌がり、出席して聴いているだけのゼミで単位を稼ごうとする現代の学生と変わらない」(191頁)
「当時、南冥の文名は藩の内外に高く鳴りひびき『関西無双』と評せられた」

南冥の塾に他藩からも人が集って政治的討論することを黒田家が怖れた。同時代のヨーロッパでコーヒー・ハウスを警戒するようなものでしょうか。

佐賀藩士は、『謹厳にして身成りを修め、大抵絹衣を着け、仙台平の袴を穿ち、室内身の廻りも美麗にして風采の派手やかなること諸藩の中第一なりし。是は閑叟公の考に書生の見苦しきは藩の恥なりとて、学質を厚うせられしに由るとかや。応接厳格に構へ一言苟もせず、胸襟窺ひ易からず、他藩の士とは打解けて話さぬ風なりし』という。ちなみに、『薩摩の士は絣の短衣を着け、白の兵児帯を締め、東征の被髪を伸ばしきり/\と髷を結び、山本権兵衛、上村彦之丞両氏などの風采今も目に在り。何れも勇壮質朴なれども、余り議論をなさず、又敢て他藩の士と交を求めず、多くは四十余人の同藩と往来せり。次に土佐藩士は一体に天真爛漫、胸懐洒落物に拘泥せず、能く他藩の人とも交り、又頗る政談を好み喧しき方なりし。学問は大体に通ずるを旨とし、豪傑風の人多し。次に肥後藩は士風温厚にして学問には身を入るゝ方なりし』という」(220頁)

福地源一郎の幕府衰亡論(300頁)
ペリー来航を受けて諸大名に意見を求めたことは幕府が外交の専権事項を自ら放棄することになり、滅亡につながった。重用された漢学者たちが会読で培われた公議輿論の精神を発揮したせいである。

吉田松陰、あちこちの塾に参加したり濃いメンツで議論したり二項対立で決断を迫ったりと、ある種の人々を想起させますね……

水戸派は攘夷を掲げて国内をまとめ、外交は穏便にすませようとしました。外交を内政matterに持ち込んではいけないと言われるけれど、横井小楠に見抜かれている時点でだめな気がします。ニュースで「a国の外交方針は~の狙いがあるものとみられます」と報じられるのと似ていませんか? 「報道機関が洞察できるほどの真意なら、b国も当然承知しているだろうし、それで没問題なのか?」といつも気になります。

「建学の精神とは裏腹に、実情は、『諸生の多くが日用に必要を感じない専門的な経書の講義を聞き、また字句の緻密な解釈が要求される輪講を行うことに興味を持ちえず、何よりも諸生にはそうした講義や輪講に耐えうる学力が乏しかった』」(280頁)

「ミルもデューイも…虚偽、ひとりよがり、詭弁、独断、速断を激しく嫌った。同様に、反対する側やその擁護者に加える偏見に満ちた攻撃にたいする議論も嫌悪した。…他の人々の手助けを一切借りずに自分の考えを孤立させるような傲慢な態度を持っていなかった。…独白ではなく、対話を好んだのである」
儒家は古来教へることは自ら学ぶことを教へると云ふ意味に於いての教学一致の説を持してゐる。即ち教育法は為学法として研究され、教育の目的を常に自発的自己陶冶に置いてゐる。従つて為学の法の発達に比して教育法の見るべきものが少く、そこに団体的組織的教育法の発達しなかった一因を求める…」
「書を読むは記憶の迷ひを解くのみ、すでに講義を聴きて忘却せざらんには、書なきもまた可なり」(388頁)は田中美知太郎が古代ギリシャの同様の考えを紹介していました。



ウィルソン・イップ監督『イップ・マン 完結』

【公式】『イップ・マン 完結』さよなら、イップ・マン。/7/3(金)公開/本予告

ドニーさんのイップ・マンものは『2』と『外伝』がすきです。それぞれサモ・ハンユエン・ウーピンのギミックが堪能できますから。『3』と『4』はちょっと特色が出すぎちゃったなあというのが……