「恩送り」と江戸しぐさ
2016年2月25日付の朝日新聞に「『恩送りコーヒー』広がる 見知らぬ誰かに一杯贈る」という記事がありました。私が読んだのはYahoo!JAPANのニュース欄でです。(下のリンク先はハフィントンポスト日本版)
「恩送りコーヒー」って何? 見知らぬ誰かに贈る1杯が静かなブームに
「恩送りコーヒー」とは、何世紀も前にイタリアのナポリではじまったとされる慈善事業で、貧しい人のためにコーヒー1杯分の値段を上乗せしてバールに支払います。それによって、貧しい人はバールでコーヒーを飲むことができます。
記事によりますと、世田谷区の喫茶店はこの仕組みをあらため、「うちの妻へ」や「ドレッドヘアの人へ」などと送り先を指定できるようにしたら急速に広まったそうです。
北米や西欧のような寄附文化の根づいていない日本国らしい普及のしかただなと思いましたが、そんなことより、この「恩送り」という奇妙な語が気になりました。インターネット検索サイトで「恩送り」を調べると、ウィキペディアの当該項目が先頭に表示されます。ざっと眺めたかぎりでは、他のウェッブ・ページはウィキペディアを典拠としているものばかりでした。
それで、くだんの「恩送り」の項が(失礼ながら)どうもうさんくさいのです。「恩送り」の出典として、『菅原伝授手習鑑』から「(略)利口な奴、立派な奴、健気な八つや九つで、親に代つて恩送り。お役に立つは孝行者、…(略)」が引かれています。前後の文脈がないため、断言しかねますが、これだけでは、たんなる言葉遊びとして「恩送り」の語を生み出した、ともとれます。また、江戸時代に「恩送り」はふつうにあった、と井上ひさしが『井上ひさしと141人の仲間たちの作文』(新潮文庫)で書いているそうです。私はそこそこ落語を聞きますが、落語の中でこの語にであったためしがありません。落語の演目は明治以降に成立したものも多いですから、必ずしも江戸時代の文化習俗を伝えているわけではないのですが。
井上ひさしの本の発行年月日は2002年1月1日です。そして、映画『Pay It Forward』(邦題は『ペイ・フォワード:可能の王国』)が米国で公開されたのは2000年です。下種の勘繰りですが、ひょっとしてこの映画に触発された創作ではないか、と。
井上ひさし 文学の蔵『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』|新潮社
「恩送りコーヒー」は、イタリア語では ❝caffè sospeso❞ と言います。英語に直訳すると ❝suspended coffee❞ 「(買い手が飲まなくて)宙に浮いたコーヒー」です。私は根性がひん曲がっているために、「恩送り」の語から何とはなしに恩着せがましさを感じとってしまいます。「宙ぶらりんコーヒー」のほうが価値中立的で好きです。*1
❝caffè sospeso❞ は近年まであまり知られていませんでした。ジョヴァンニ・アモレッティ氏は、ナポリの哲学者の本を読んで知った、と『耳が喜ぶイタリア語』(三修社)で書いています。*2この哲学者はおそらく、ルチャーノ・デ・クレシェンツォのことだろうと思われます。
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