ポレンタ天国

たぶん読んだ本・見た映画の記録が中心になります

私の世界史

 大学受験を控えた年に地元の学習塾へ通いました。そこで世界史を教えていた講師は、「大学で経済人類学を学び、ドラッカーの社会生態学に依拠した独自の歴史観を持ち」と紹介文にあるでした。ちょうどそのころ、川勝平太の経済史に触れたのもあって、経済学から見た歴史に熱狂したものです。と言っても、本の内容をじゅうぶんに理解できなかったのが正直なところですが。

経済人類学への招待―ヒトはどう生きてきたか (ちくま新書)

経済人類学への招待―ヒトはどう生きてきたか (ちくま新書)

近代はアジアの海から (NHK人間講座)

近代はアジアの海から (NHK人間講座)


 その先生の説明は、経済の上に社会が乗っかっている、ということが根幹にありました。古代ローマ帝国は衰退して、経済規模が縮小した。だから、帝国を東西に分けて西ローマ帝国をリストラしたのだ。あるいは、産業革命によって英国は経済規模が莫大になった。消費先として植民地が必要だった。などです。そういえば、マルクス経済学が間違っているとする理由を、トリクルダウン理論を使って説明していました。ケインズ批判もありました。そういう時代に経済学を修められたのでしょうね。鄧小平の偉大さも語っておられました。授業は、お手製の印刷物で進められました。指示は二種類あって、線を引くか丸で囲むかです。それぞれセンター試験で出るか二次私大で出るかだったように思います。

とう小平 政治的伝記 (岩波現代文庫)

とう小平 政治的伝記 (岩波現代文庫)

ケインズ―“新しい経済学”の誕生 (岩波新書)

ケインズ―“新しい経済学”の誕生 (岩波新書)


 川勝平太の話がおもしろかったのは、なぜそうなったのかがど素人にも腹に落ちるわかりやすさだったからでしょうね。自分が馬齢を重ねてみると、そこまですんなり説明できるものかいな、という気がしなくもないです。

文明の海洋史観 (中公叢書)

文明の海洋史観 (中公叢書)

日本文明と近代西洋―「鎖国」再考 (NHKブックス)

日本文明と近代西洋―「鎖国」再考 (NHKブックス)

杉山正明は名指しこそ避けているものの、経済史家の手法を批判しています。


 先生のことばで、「民主主義を守るには金がかかる。教育その他が必要だから」が印象に残っています。当時は今に輪をかけて愚かでしたから、よくわかっていませんでした。のちに、こんな本を読んだら腹に落ちました。

娘と話す 国家のしくみってなに?

娘と話す 国家のしくみってなに?


 私は受験勉強が大好きでしたから、高校を卒業してからもう一年、予備校に通うことにしました。その予備校の世界史講師は、君たちはもう細かい知識は覚えているでしょう、と言って、通史的な授業はせず、論述対策にひたすら学会の研究動向を解説してくださいました。今思えば最新のものではないのですが、ブローデルの地中海、それを受けて京都大学の研究班がネットワークと交易の見地から世界史を再構成しようとして頓挫した(グローバル・ヒストリーのことでしょうか。ともあれ、これは先生の誤りだと思います)、ウォーラースティンの世界システム論、歴史修正主義、なんぞです。

歴史入門 (中公文庫)

歴史入門 (中公文庫)

帝国とアジア・ネットワーク―長期の19世紀―

帝国とアジア・ネットワーク―長期の19世紀―

世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘) (白水Uブックス)

アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘) (白水Uブックス)


 なぜか一回の講義をまるまる使ってロッキード事件を解説されたこともありました。しかも陰謀論を。

角栄失脚 歪められた真実 (ペーパーバックス)

角栄失脚 歪められた真実 (ペーパーバックス)


 文章作法も教わりました。主語と述語との関係がねじれてはいけない、従属節と主節で主語が異なるとわかりにくい、形容詞節はなるべく使わない、使うときは長くならないように、知っていることを何でも書く「知りすぎた不幸」はやめろ、等々。


 私にとって思い出ぶかい教師というと、このお二人です。米国の大統領選については、かたや民主党候補が当選すると予想し、もういっぽうは共和党でした。あの庶民的な雰囲気が受けるのだ、と。おふたりとも、電網空間でいくら調べても近況が不明です。どうかお気持ちさわやかにお過ごしであらんことを。



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「事実は価値判断とは独立に存在し得ない」というヤツだ


デジタル部・與那覇里子、ライター・大橋弘
「急増するネパール人 沖縄に来た理由(1)『日本は素晴らしい国』夢を追い勉学とバイトの日々」
(沖縄タイムス2016年8月6日13:23)
www.okinawatimes.co.jp

デジタル部・與那覇里子、ライター・大橋弘
「6畳に2人で暮らす留学生たち 急増するネパール人 沖縄に来た理由(2)」
(沖縄タイムス2016年8月12日12:19)
www.okinawatimes.co.jp



岩切明彦
日本語学校におけるネパール人学生の様相とその諸問題:福岡県A校に通うネパール人学生へのライフストーリーインタビューから」
(≪西南学院大学大学院国際文化研究論集≫第9号)
日本語学校におけるネパール人学生の様相とその諸問題 ―福岡県A校に通うネパール人学生へのライフストーリーインタビューから―



でもまぁ、今言ったことは初級の科学方法論であってね、実は、中級、上級の世界になると、事実と価値判断は独立に存在し得ないし、実証分析を行う際の問は、その人が持つ価値観に強く依存することが分かってくるんだよね。でも、それはあくまでも中級、上級の世界の話だから、まず君たちは、事実と価値判断を峻別し、実証分析と規範分析の違いを教科書レベルの知識としてしっかりと理解しておいてくれ。30過ぎても“経済学は価値独立な実証科学で云々”と言っているひとは、まぁ、社会科学にはあんまり向かないだろうな・・・*1


 親族が外国人技能実習生と接しまして、あの人たちはえらい! あまりにつましく暮らしていて、家庭菜園をつくるばかりか自分たちのところに野菜屑をもらいに来るほどだ、と、まあ、その話の背後に窺えるものについてはまるで見えていなさそうな調子でした。苦労しながら頑張っている人が好まれるのは昔からかわりません。ほら、「蛍雪之功」とか、二宮金次郎さんとか。「その苦労がどうして生じたか」まで行きつくのは少々複雑ですから。目的のためには手段を選ばずにわかりやすい物語を作ってでも訴えほうが効果が大きいのかもしれませんし、けれどもそんなことでは長続きしないような気もしますし、身近な人間に対しては根気強く説明することにしています。なかなかそれでうまくいったためしはありませんが。

*1:権丈善一 「事実は価値判断とは独立に存在し得ない:『人間は自分がみたいという現実しかみない』というカエサルの言葉の科学方法論的意味合い」 (勿擬学問116) http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare116.pdf http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/ ちなみに、カエサルのことばは原文で“libenter homines id quod volunt credunt.”だそうです。「人は自分の望むことを喜んで信じたがる」くらいの意味でしょうか。

カエサル戦記集 ガリア戦記

カエサル戦記集 ガリア戦記

別府(お詫びします)

表情のつけ方がひどく現代的に思えます。また、保存状態がよすぎるような。贋物をつかまされておいででなければよいのですが、などと門外漢の私が心配するのは大きなお世話でしょう。
(2016/09/20追記)たいへん失礼いたしました。こちらで確認できました。下のウェッブログのかたが説明なさっている理由から下衆の勘繰りをいたしました。お詫び申し上げます。
AMNH Digital Special Collections | Eating rice, China
intlhistory.blogspot.jp



hironeko-photo.blog.so-net.ne.jp


 別府と言えば、「流川文学」。織田作之助は「雪の夜」「湯の町」「怖るべき女」の別府三部作ほかに「続夫婦善哉」でも別府を舞台にしています。この中では「雪の夜」がいっとう好きです。落魄する男好きにはたまりません。織田作はんの諸作品でおなじみの、無茶やってみずから進んで破滅へ向かっていった男が、珈琲を二口三口啜っただけであとは見向きもしない場面なんて、もう。


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玉音放送のリスニング問題

 八月がやって来た。終わりが間近いとはっきり感じられるようになった。警官たちはほとんど姿を見せない。わたしたちは村まで下りていくようになり、村人のほうも顔を覚えてくれ、友人みたいに挨拶を交わすようになった。暑ければ川に泳ぎにいった。こうして次第に自由な日常の暮しに戻ることができたのは、本当にありがたい。八月七日か八日に広島(廣済寺から五百キロメートル離れている)のニュースを読んだが、当初は新聞もこの惨事について十分な説明ができずにいた。やがて長崎にも原子爆弾が投下される。この辺りにも飛行機が低空を飛んでくるようになり、田畑にいる人に向けて機銃掃射するようになった。八月十五日、男の子がひとり村から駈けてきて、天皇陛下がラジオでお話しになると教えてくれた。そんなことは前代未聞であり、誰もがひどく驚いている。「死ぬまで戦うようにと仰るのさ」警官のひとりが力なくうそぶいたが、単に体面を保とうとしてそう言ったようにしか聞こえなかった。
 このとき実に奇妙なことがあった。天皇の演説(それは事実上の降伏宣言だった)を、そこにいた日本人の誰ひとり理解できなかったのである。実際、詔書は日常語とかけ離れた宮廷語で書かれており、それは言語学者でなければ理解できない言葉だった。したがって警官たちは、夕方まで――夕方には新聞が届き事態が明らかになった――わたしたちに外出を認めようとしなかった。その晩、月明かりのもと、わたしたちはついに自由の喜びをかみしめたのである。警官たちは挨拶もなく忽然と姿を消した。こちらに「合わせる顔がなかった」のだろう。*1

 フォスコ・マライーニはイタリア出身の文化人類学者で、千九百三十八年に来日、北海道帝国大学アイヌ民族研究に従事したあと、四十年より京都帝国大学でイタリア語を教授します。四十三年にイタリア王国が降伏すると、サロ共和国への忠誠を拒んだため、名古屋市天白の捕虜収容所へ送られました。収容所では支給されるはずの食糧を看守たちが横流ししており、苛酷な状況だったようです。四十五年三月の大空襲があってから郊外の廣済寺に移され、そこで玉音放送を聞きました。

 読みあげられたのは漢文訓読体で書かれた文章でしたから、耳で聴いて理解するのに骨が折れたとしてもおかしくない。とはいえ、教育勅語などは暗誦させられていたんじゃなかったか。内容はよくわからないままに口が覚えていたのかもしれません。あと、当時の新聞も(現代の新聞と同様に)口語体じゃなかったはずですが、新聞の文体よりさらにむずかしい言葉づかいだったことも想像に難くありません。また、この書き方ですと、フォスコ・マライーニ自身も理解できなかったように読めます。当時どのくらい日本語を解したのか知りませんけど。

 いっぽうで、高見順の『敗戦日記』を読むかぎり*2、高見は玉音放送を聞き取れていたようですから、受けた教育の差ですかね。

ダーチャと日本の強制収容所

ダーチャと日本の強制収容所

敗戦日記 (中公文庫BIBLIO)

敗戦日記 (中公文庫BIBLIO)

*1:フォスコ・マライーニ『随筆日本』(松籟社)、681・682頁

随筆日本―イタリア人の見た昭和の日本

随筆日本―イタリア人の見た昭和の日本

*2:高見順「敗戦日記」8月15日〜21日

七月に読んだ本

かつて描かれたことのない境地: 傑作短篇集 (残雪コレクション)

かつて描かれたことのない境地: 傑作短篇集 (残雪コレクション)

 老母からよく、「また本ばかり買って(、しょうがない子だね)!」と小言をちょうだいしたものです。老母は学がないので、およそ本というものはどれも似たりよったりだと思っていて、何冊も買うのは無駄遣いだと感じるようです。図書館で借りて読めばいいのか、と聞いてみる気にはなりません。たぶん、本を読む暇があったらもっと生産的なことをしろ、と答えるだろうと思います。

 この短篇集はどうやって楽しんだらよいか。「悪夢的」と言ってかたづけるのも陳腐な手段ですし。翻訳者が巻末に各作品の概要を載せていますが、どれもこれも単なる要約で、なんでわざわざ附けたのかわかりません。訳した人もわかってないんじゃないの、などと下種の勘繰りを入れてしまいます。私ももう若くないので、こういう本を無理しておもしろがるのはやめようと思いました。わからないものはわからない。


成長する教師のための日本語教育ガイドブック〈上〉

成長する教師のための日本語教育ガイドブック〈上〉

成長する教師のための日本語教育ガイドブック〈下〉

成長する教師のための日本語教育ガイドブック〈下〉

 対話形式じゃなくて講義調だったなら、分量が圧縮されてよかったのにと思います。対話者の一人が得体のしれない関西弁をつかうのがつらかったです。おもしろおかしく書くのは並大抵の技量では無理ですね。要点だけを読みました。この手の本は何か1点だけ持てばじゅうぶんでしょう。私は国際交流基金の「日本語教授法シリーズ」(ひつじ書房)*1のほうが好みです。


一読巻を措く能わざる面白さという点で、サンドラールの傑作『黄金』は世界文学中ベスト10の上位を占めるものと断言して憚らない。…しちむずかしい理屈抜きで、〈小説読みの面白さ〉を読者の皆さんにもじゅうぶん満喫していただける…(訳者の解説より)

 内容はまさにこのとおりでありますが、ただ、この翻訳はちょっと……。生田耕作と言えば自他ともに認める名翻訳家だと思ってきました。けれども、本作では、原文でおそらく長めの分詞修飾になっているところをじゃんじゃん連用中止法に、動詞が歴史的現在になっているところを律儀に非過去に訳してあるものですから、ひどく読みにくいです。

 生田耕作の訳した『地下鉄のザジ』(中公文庫)に一箇所、誤訳があります。
Napoléon mon cul, réplique Zazie. Il m’intéresse pas du tout, cet enflé, avec son chapeau à la con.

「ナポレオンけつ喰らえ」ザジは剣もほろろに。「ぜんぜん興味ないわよ、あんな水ぶくれ、おまんこみたいな帽子をかぶってさ」*2

conはたしかに女性器の俗称ですが、「莫迦/間抜け」等の意味もあって、ひところ話題になった映画『奇人たちの晩餐会』の原題は<>です。電網のない時代でしたから生田みたくフランスへ行ったことのない人が俗語に精通するのは難しかったのでしょう。

 『地下鉄のザジ』といえば、私には、京都のみなみ会館でよく上映されていた映画、という印象が強いのですが、原作にかなり忠実であることに驚きました。休日のうきうきした気分が横溢しているような気がして、私は好きです。

地下鉄のザジ【HDニューマスター版】 [DVD]

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地下鉄のザジ (中公文庫)

地下鉄のザジ (中公文庫)

ジョージ・オーウェル「イギリス人の政治観」より

English political thinking is much governed by the word "They." "They" are the higher-ups, the mysterious powers who do things to you against your will. But there is a widespread feeling that "They," though tyrannical, are not omnipotent. "They" will respond to pressure if you take the trouble to apply it: "They" are even removable. And with all their political ignorance the English people will often show surprising sensitiveness when some small incident seems to show that "They" are overstepping the mark. Hence, in the midst of seeming apathy, the sudden fuss every now and then over a rigged by-election or a too-Cromwellian Handling of Parliament.

イングランド民衆の政治観を強く支配しているのは『あいつら』という語である。『あいつら』とは社会の上層部のことで、この不思議な権力者たちは、大衆の意に反することをいろいろとする。ところが、広く共有されている感覚としては、『あいつら』は専制的だけれども全能でないことになっている。『あいつら』は輿論の圧力に反応する。大衆が面倒がらずに圧力をかけた場合にである。そして、イングランドの大衆は政治について無知であるにもかかわらず、おどろくべき敏感さを示すことがよくある。そういうときには、何かしら些細な出来事からわかるようなのだが、『あいつら』が越権行為を働いているものだ。こういうわけで、うわべは無関心にとりまかれているのに、ときおり騒乱が突発するのである。不正な干渉がおこなわれた補欠選挙やクロムウェル式にすぎる議会操縦などに対してはそうなる。」


※拙自由訳。原文は『対訳オーウェル2』(南雲堂)から。

対訳オーウェル 2 (現代作家シリーズ 12)

対訳オーウェル 2 (現代作家シリーズ 12)


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ホラッチョ黒石

 大泉黒石という作家がいました。しばらく前に死んだ俳優さん、大泉晃の父です。『俺の自叙伝』が≪中央公論≫の瀧田樗陰に絶賛され、一躍大正文壇の寵児になりました。

父はロシアの農家の家系の出自、好学の士でペテルブルク大学での法学博士。ロシア皇族の侍従として長崎にきたとき、日本側の接待役をした母恵子を知り、恵子は周囲の反対を押し切って結婚。恵子は当時の進んだ女性で、ロシア語を解し、ロシア文学を研究していた女性であったが、黒石を生んで他界したとき、僅かに十六歳であった。祖母にひきとられた黒石は、小学校三年生まで長崎で、次いで漢口の領事をしていた父をたよっていくが、父とも間もなく死別。父方の祖母につれられ、モスクワにいき小学校に入る。またパリのリセに数年在学したが、停学。スイス、イタリアを経て長崎に戻り、長崎鎮西学院中学を卒業。ふたたびペテログラード[ママ]の学校に在学。ロシア革命の巷と化すに及んで帰国し、京都三高に入学。幼馴染の女性福原美代と結婚。三高を退学して東京にでてきたのが一九一七(大正六)年。一時、一高に在籍したが間もなく退学。石川島播磨造船所から屠殺場番頭にいたる雑業のかたわら、創設化を志す。(由良君美大泉黒石掌伝」)

とのことですが、まあ、この自伝が嘘ばっかり。幼少時、近所に住んでいた「トルストイに石を投げつけたらトルストイが猿のように真っ赤になって怒った」とか、「ロシア革命の内戦に巻きこまれ、ペトログラードの橋の上を年上の愛人コロドナの屍体をひきずって走る」とか書きつけ、「ウソツキの天才と言われて、みずからもウソと真実のけじめがつかなかったようなでたらめな生活ぶり」で、とうとう文壇から忘れ去られました。

 うそとでたらめの半生はこちらのウェッブログで紹介されています。
blog.goo.ne.jp

 世の中には、なんでまたそんな嘘をついて虚飾に満ちた人生行路を歩むのか理解に苦しむ人たちがいます。私の周りにいた人には、自分が本気を出せば気功で相手を吹っ飛ばせるやら、芸能事務所に所属してモデルとしても活動しているやら(およそそんな事務所が存立できそうにない田舎町で)吹聴する人がいました。ああいう人たちも自分で自分の嘘を信じきってしまっているのかもしれません。どなたかがおっしゃっていたことですが、とりたてて何の才もないけど世に出たい人は、でたらめな嘘をついてでも注目を浴びようとするのだろう、と。假想空間のなかでよく見られる光景です。黒石はロシア名としてアレキサンドル・ステパノヴィッチ・コクセーキを名乗っていて、これからもなにがなし、ビジネス名ショーン・マクアードル川上を想起します。

 黒石の本で現在もっとも入手しやすいのは『黄夫人の手』(河出文庫)です。また電子書籍で代表作『人間廃業』が販売されています。「ダメ人間の本棚」に飾ってください。

人間廃業 人間開業

人間廃業 人間開業