ポレンタ天国

たぶん読んだ本・見た映画の記録が中心になります

曽野綾子と織田作之助

ともに昭和六年生まれの曾野綾子有吉佐和子が、前者は「遠来の客たち」(昭二九)後者は「地唄」(昭三一)によってみとめられ、戦後育ちの二十代の女性らしい明るさと大胆さで、歴史と現代に取材した物語を書きだしたころから、女流作家全般の作風に一つの大きな変化が現れました。
 これまでの女流作家は、主としてその体験を描くことから始め、いわゆる体当たりの告白で世間の注目をひくことを出発点とするのが通例でしたが、彼女たちは自分らの若さに悪びれず、大人の世界も大胆に想像して物語をつくりあげ、若い読者の間で成功を博したので、初めは反撥していた既成の女流作家たちも、それに倣うようになり、女性のストーリー・テラーが輩出するにいたりました。(195頁)

 紫式部以来、といわなくとも、わが国の小説も女性の読者をはなれて成り立たなかったので、女性の想像力は感覚と直結している点で、男性のそれより小説的といえます。時代の要求も女性の方が観念的でないだけに、より鋭敏に感じとる場合もあるので、曾野、有吉は、いわば純粋に物語化された小説を大胆に提出することによって、多くの女性作家に道をひらいたといえます。(197頁)

引用はいづれも中村光夫『日本の現代小説』(岩波新書)から。

日本語の文学史上、重要な作家なんですね。いえ、それで、なんとなくわかりました。土岐雄三の『わが山本周五郎』を読むと、作家・山本周五郎と編集者との関係は王様と家来に似ていましたが、曽野綾子と編集者はどうなんでしょうか。大御所作家につく昔ながらの編集者、だとたら、やはり山本周五郎のそれみたいなもんで、おいそれと諫言できない、なんてことがあるんですかね。外からは想像するしかできませんが。老母が<<婦人の友>>を定期購読していた関係で三浦朱門の連載コラムをよく読んでいましたが、今思えば、ご夫人に劣らず自由闊達なご発言をなさるかたでした。


***********

 太宰治の「新釈諸国噺」(『御伽草子』所収、新潮文庫)を読んでおりましたら、「遊興戒」という話が、織田作の「雪の夜」とよく似ていることに気がつきました。
 「遊興戒」は『西鶴置土産』から翻案したものです。上方の三粋人が江戸に遊んでいると、かつての遊び仲間とばったり出くわし、評判の名妓を身請けしたこの仲間のすっかり落魄した暮らしに憮然とする、といった筋立てです。いっぽう、「雪の夜」はといえば、大坂の社長がなじみの女と別府で年越ししているところへ、かつて同じ女を目当てに張りあった男と鉢合わせ、零落した様を目の当たりにする、という具合で、時代と舞台が違うだけです。あとは茶碗酒が珈琲に。
 視点も違うか。太宰のほうは三粋人があっけにとられるけれど、織田作のほうは落ちぶれた側に焦点があわせられています。
 換骨奪胎したのだとしたら、織田作は井原西鶴に傾倒していましたから、さもありなんと思わされます。そして、うまいこと近代的な話に練り直したものだなあと。


お伽草紙 (新潮文庫)

お伽草紙 (新潮文庫)

温泉小説

温泉小説

↑本書には泉鏡花の「鷭狩」も収録されています。
武道伝来記 西鶴置土産 万の文反古 西鶴名残の友 (新 日本古典文学大系)

武道伝来記 西鶴置土産 万の文反古 西鶴名残の友 (新 日本古典文学大系)

西鶴は『男色大鑑』もいいですよね。

新編日本古典文学全集 (67) 井原西鶴集 (2)

新編日本古典文学全集 (67) 井原西鶴集 (2)

8月に読んだ本

今村和宏『わざ:光る授業への案内』(アルク)
www.bookpark.ne.jp
たぶんこの月に読んだんじゃないかと思いますが、7月かもしれません。実店舗でもオンライン書店でも在庫なしですが、オンデマンド出版で販売されています。「脳細胞の回路を作りやすい」とか「論理的な左脳と創造的な右脳を総合的に活用させる」とか、ところどころ「ん?」となるのが玉に瑕です。こういう授業なら受講生も退屈せずに習得できるよね、と素直に取り入れたくなりました。具体的な小技も紹介されつつ、とにもかくにも、まずは「体を使え」。



権丈善一『ちょっと気になる社会保障』(勁草書房)

ちょっと気になる社会保障

ちょっと気になる社会保障

 読んでよかった。序文から引用すると、

社会保障って、なんだか気になるんだよね。ちょっと知りたいと思うんだけど、なに読めばいいんだろ。政府の資料もいろいろとあるみたいだな。でも、なんか胡散臭いしなぁ。となれば、テレビで見たことのある人の本やよく売れてそうな本を読めばいいのかな。なるほど、これはおもしろいぞ、政府っていつも国民を騙そうとしているわけか。うんうん、そうかそうか……世の中はやっぱり陰謀で動いてんだよなぁ。…というような、脱藩官僚と脱落官僚の違いも分からない感じの人、そして政府は100年安心なんて一言も言っていないなんてことも知らない人、さらには今ではこの国の社会保障の課題は年金ではなく、むしろ子育て支援や医療介護に改革の焦点が当てられるべきことを知らない人たちが読んでくれる本でも書いてみようかなと思って書き始めてみたのですけど、やっぱり読んでくれないでしょうね。

 そうなんですよね。私同様ぼんやりした人間は、見たくもない現実は見ようとしないし、目の前に見せつけられても信じようとしないものです。けれども、著者は言います。

今すぐにとは言いませんが、できましたらいつの日にか、社会保障をもっとよくし、この国をもっと住みやすい社会にするために、僕らと一緒に社会保障についての正確な理解を、まわりの人たちに伝える役回りになってくださいませんか? 僕はそういう人たちを、ポピュリズムと戦う静かなる革命戦士と呼んでいるのですが(162頁)

 というわけで、私もこの本を宣伝します。今、この駄記事をお読みになってくださる方は微々たるものでしょうが、もしその中に、「年金制度は破綻するんでしょ?」とか「国会議員や公務員がまず定数と給与を削減しろよ」とかお考えのかたがいらしたら、どうぞ本書をお手に取っていただきたい。陰謀論に引っかからなくても、それによって得するのは誰か、に思いを巡らせることはできるのであって、どうして世代間格差を煽るのかについて、なんかも。損して得とれ、とはすこし異なるかもしれませんが、長い目で見たときにどうか、たとえば、厚生年金の適用範囲を拡大すると、たしかにそれによって今の手取りが減ってしまう場合もあるのですが。
 それにしても、著者もそうですが、日本国の中央官庁の人たちも、私なんかと比べると雲の上にいるかのように優秀ですね。国民からかくも不信の目を向けられながらも、ほんとうによくやってくださっています。まあ、庶民というものは、受像器で野球の試合を観ていると自分が監督よりうまい采配をふれるように錯覚するし、自分の思いついた方針を採用すれば学校教育が改善すると妄想するしで、専門家の専門性に敬意を払わない傾向にあります。インテリの一票より莫迦の三票。このようにあけすけなことばを著者は用いませんけれど、潤沢なキャンペーン費用を払える者が多数決で勝利するわけで、それに対抗する策もおのずと明らかに思われます。



規制緩和」派は将来に対する不安や懸念を蔓延させることをまんまとしおおせました。



姫野昌子ほか『ここからはじまる日本語教育』(ひつじ書房)

ここからはじまる日本語教育

ここからはじまる日本語教育

日本語教育を実践するにあたっての初歩の初歩、心構えや指針が書いてある本です。千九百九十八年に刊行されました。ちょっと時代の限界を感じる……。「人間が好き、言葉が好き、好奇心旺盛なネアカ型タイプの方なら素質十分である」(はしがき)、「いわゆる“アジアの花嫁”と言われる日本人配偶者」(13頁)、「テレビを見ていたら、美しいソプラノで『昴』を歌い上げ、外国人歌謡大賞に決まった上品な感じの女性が、インタビューの際、応援に来ていた夫と抱き合った後で『この人、ほんとにあたしに惚れてっからさ』と言った。それを聞いて、会場の人々は興ざめしてしまった」(67頁)等々。日本語を学習する人を「外国人」に限定している点も前提としていてよいのか気になりました。線画で教える方法などは役立てていきたいと思います。差し引きすると、有益な本という結論になります。



岡本薫『世間さまが許さない!:「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」』(ちくま新書)

世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書)

世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書)

 民族性や国民性の話題は話半分に聞いておくべきです。著者は序論で本書を「研究成果の一部」と位置づけていて、電網空間ではそれを真に受けた読者が内容の非科学性を論難しているんですが、著者にしてみれば、「しゃれのわからねぇ奴だ」と苦笑するところかもしれません。気楽な読書に向いた本です。内村鑑三先生なら、そんな暇があったら語学をやれと言いそうですが。*1
 著者の論点はふたつです。ひとつは、自由と民主主義は日本人に向いていない。もうひとつは、自由と民主主義のせいで日本的モラリズムが機能不全をきたしている。だから、自由と民主主義をもうやめろ、と結論で主張されます。これを真顔で主張する人が見受けられますが、まあ、ねえ。
 自由と民主主義は多様性と価値相対性を基盤にし、「絶対的に正しいこと」の存在を認めません。もし存在するなら、多数決制や思想信条・行動の自由などは必要ありませんから。自由と民主主義のもとで、人の内心はすべて(どう思おうと)自由です。行動はルールを守るかぎり自由です。
 日本的モラリズムは、同質性と共通モラルの絶対性を基盤にしています。その特徴は四つあります。①あらゆる問題をルールやインセンティブ構造などのシステムの問題ではなく、モラルの問題として考える。②人類のモラルは共通するはずだと思い込み、モラルの基準を神でなく、世間さまに置いている。③モラルを超ルール的正義として、自由を無視する。④モラルを超ルール的正義として、ルールを無視する。
 具体例には事欠きません。たとえば、テレビ番組でLGBTの人に対して俳優が、「おれはいいけど世間がゆるさないよ」、と言いました。店内で騒ぎ立てる子を叱る際、親が「ほら、お店の人に怒られるよ!」。被疑者の弁護士を悪の手先のように罵る。「親日国」と「反日国」。「なぜ」を五回問うと、原因が心の問題に行き着く。横綱が変化するとブーイングを浴びせる。「波紋を呼びそうだ」。「説明責任を果たすべきだ」。「お騒がせして申し訳ございません」。店内の椅子に長時間居座る客のことで、別の客が「ああいうのを許すな」。「裏切られた」。行政はもっと有害図書を取り締まれ。「想定外だった」。私の見聞きした範囲でも、こんなに日本型モラリズムが。
 日本社会では、自分のモラルと世間さまの基準が社会正義と同一視されますから、契約(しなければいけないこと・してはいけないこと・してもしなくてもいい自由なことの確定)ができません。そういえば、社会契約は近代憲法の理論的な基礎でしたね。人権の名のもとになんでもできると思ったら大間違いだ、だの、義務を果たさずに権利ばかり主張し、などと言いだす人がいます。現行憲法だけでなく民法でもなんでも、近代法は日本人には合わないのです。



丸山敬介『教え方の基本』(京都日本語教育センター)
www.bonjinsha.com
現在流通しているのは改訂版ですが、私は元の版で読みました。日本語教育の実作業を確認する本です。パターンプラクティスを推奨しています。それは改訂版でもかわりません。ですが、第二言語習得研究の本によると、パターンプラクティスより意味のある内容で練習したほうが有効のようです。第三部の線画のかきかたはなかなかよいと思いました。
 『みんなの日本語』は、「本書の使い方」を律儀に守ると、どちらかと言えばパターンプラクティスが中心の教科書になります。版元のかたもその点を踏まえて、コミュニカティブな教材に変える手がかりを提供してくださっていますよね。
日本語教材(学ぶ・教える)\ その他関連

熱心な実習生ほど陥ってしまうことですが、ともすれば非常に細かい情報を細大漏らさず調べ上げ、それをそのまま学習者に提供してしまうことがあります。(206頁)

 『みんなの日本語』初級を進めながら、『日本語の教え方の秘訣』に書いてある教師の留意事項を残らず教える学校もあると聞きます。教えたらぜんぶ理解して身につくのであれば、これほど簡単なこともないのですが。



モーダックほか『最底辺のポートフォリオ:1日2ドルで暮らすということ』(みすず書房)

最底辺のポートフォリオ ――1日2ドルで暮らすということ

最底辺のポートフォリオ ――1日2ドルで暮らすということ

  • 作者: ジョナサン・モーダック,スチュアート・ラザフォード,ダリル・コリンズ,オーランダ・ラトフェン,野上裕生,大川修二
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2011/12/23
  • メディア: 単行本
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 にわかに貧困の定義、基準が注目を浴びるようになりました。二千十五年に世界銀行が定義した絶対的貧困は、一日の収入が購買力平価で一ドル九十セント以下であることです。そして、相対的貧困の定義は、等価可処分所得が中央値の半分以下になる世帯、です。

どなたか存じ上げませんが、こちらのウェッブログに本書の要点が書いてあります。
ameblo.jp

 訳者解説に「横山源之助の『日本の下層社会』のように、「貧困」をテーマにしたルポルタージュとしても読めると思う」とあります。箪笥預金がそっくり盗まれたり、土地を売って夫の治療費を捻出したやさきに夫が死亡したり、といった貧困者の日常を知ることができるのです。本書を読みながら、常に、ある日本人のことが頭にありました。その人とは仮想空間のみでのおつきあいですが、SNSで暮らしぶりと拝見しております。日払いの仕事と週払いの仕事を掛け持ちしており、絶対的貧困層の人と同様に、日々の収入が不安定です。また、クレジット・カードや消費者金融を利用して、実体の何倍かのフローを生み出しています。本書の調査対象者との違いは、金銭の管理技術です。まとまった収入が入ると、借金の返済より、映画などの娯楽につかってしまうのです(少しでも金が手に入ると酒を飲んでしまう人も、落語国の住人だけでなく実際によくいるようです)。にわか雨に降られて、ビニル傘を買ったら、食事代に困ったなんて日もありました。そんな日々ですから、返済期限が迫るたびに肝を冷やしています。貯蓄クラブ(頼母子講)を利用して強制的に現金を残しておけたら、もう少し不足の事態に備えられるのでしょうが。



小竹文夫『上海三十年』(弘文堂)

上海三十年 (1948年) (アテネ文庫〈28〉)

上海三十年 (1948年) (アテネ文庫〈28〉)

 再読。アマゾンの古書価は五千円ですか……(二千十六年八月三十一日時点)。いつどこで買ったか忘れましたが、わりと状態の良いものを千円前後で購入したように思います。十余年古書店と古本市で探し回ったけれど全然出くわさず、あっても状態がよろしくなくてで、見つけたときの喜びはひとしおでした。地方都市の古本屋さんのほうがアテネ文庫の値付けが安いような気がします。気のせいかもしれませんし、アテネ文庫自体が安値になっているのかもしれません。本書と同時に高島敏夫の『漢字と日本人』(文春新書)を薦められたのでした。薦めてくださった先生は、いかにも儒学者然として格好よかったものです。最終講義を拝聴できなかったのがいまでも心残りです。

池田誠「<批評・紹介>小竹文夫著『上海三十年』」(<<東洋史研究>>第11巻第1号)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/138905

 中国社会の「汚穢・奇怪・喧騒の中にも一種の秩序と安易さ、平穩と自由さが存することが感ぜられて來た。…己に關はりなき他人に對する絶對不干渉があり、所嫌はぬ吐啖も放埓ながら一種の自由である。…その他、菜館は汚穢だが、料理は田舎でも頗る美味の熟食であり、財布や時計が落ちそうになつていても注意して呉れる人も無い代り自分のことは自分で始末をせねばならぬ。」
このあたり、よくわかります。「世間さま」のいない気楽さだと思います。

 著者は中国人を徹底した現世主義と規定し、その三大欲求は福(多子)・禄(財貨)・寿(長命)であるとします。これも納得できます。現世主義者は孤独を嫌う。なんとなれば、隠遁はなにがしかの点で現世を厭うことだから。というわけで、基本的に個人行動をしません。いわゆる「ぼっち飯」も少ないです。日本より中産階級の人たちが投資や微商*2に熱心です。長生きのために屋外運動(広場舞、太極拳)、スポーツジム(ヨガ、マッサージ)、(非科学的な健康食品)が大好きです。

 中国人ほど「密居密集を好む民族は少ないやうである。」「彼等は絶えず街の大通りや廣場・市場・茶館・などに集つて喧しく談笑したり用事もないのに街を歩き廻つたりしてゐる。」団地の辻々や商店の軒先で老人が、喫茶店内で若者がポーカーや麻雀、中国将棋に興じている風景はおなじみですね。また、中国における「『家』とは、夫婦を中心とする斷片的な西洋の家や、祖先の繼承を重んじる日本の垂直的な家と異なる。現に血緣に連なる物凡てを含んだものである。從つて兄弟は勿論、從兄弟、再從兄弟も亦『家族』であって」、親戚のことも“おにいさん”“おねえさん”などと呼びますし、初めて会った親戚が何十年来の知己のように世話を焼いてくれます。

 中国人が「西瓜の種子を嚙るのは、長い閑談に撮み物が必要であると共に早く腹の脹れるものでは不可ないからである。」現代では西瓜より向日葵の種をよく見ます。

 私が見たかぎりでは、バスで人に席を譲る人も路上で喜捨する人も日本より多かったのですが、道教の教えの中には、極楽往生するために功徳ポイントを貯めなければならないものがあるそうで、したがって、喜捨される側もじつに堂々と喜捨を要求します。

 強烈な現世主義の欠点として、内面の空虚さ、血縁集団を超えた協同性の薄さを著者は指摘していますが、まあ、国民性というものは話半分に聞くのがよくて、普遍的なものではありません。現代でも、上海のような一級都市民を中心に、“ポスト・モダン化”が起こって、ひとり静かに何かするのが好きな人も増えています。

親の責任を問う日本の特殊性

「世間さまが許さない!」案件。

 法的には無罪であっても、道徳的に責任があるということがあります。国家が法的に罪を追及するとしたら、道徳的に責任を追及するのはいわば共同体です。その意味で、道徳は、共同体が存続するための規範であるということができます。…他国と比較してみると、日本のケースがかなり特異なものだということがわかります。(21・22頁)

アメリカ人で、子供がそういうことをやって、母親が無実の罪だと言ったときに、その親が無責任だと言う人はいない。息子が重大な罪を犯して、親がそれを弁護しようとしたら、それは当たり前だと思われて、特別変だとも、無責任だとも思われない。皆がよってたかって親を責めるということは、まずないと思います。(23頁)

子供がやったことになぜ親が「責任」をとるのか。その場合、誰に対する責任なのか。それは「世間」といったものに対してです。罪を犯した子供はそれなりに処罰されますし、その親もそのことで十分に苦しみ、罰を受けている。被害者の親が怒りを禁じえないというのはわかりますが、なぜ「世間」が――現実にはジャーナリズムが――、その怒りを代弁するのでしょうか。もしその結果として、非難攻撃された親が自殺したとして、そのことに「世間」は責任をとるのでしょうか。「世間」というのは曖昧模糊としたものです。はっきりした主体がない。誰かが親を追及しようとすると、その人は自分はともかく、「世間が納得しない」からだというのでしょう。(25頁)

友情が存在するためには「自己」がなければならない。しかし、その「自己」がないのです。中心は「世間」であって、それを彼らは恐れている。だから、彼らは孤立を恐れて仲むつまじく付き合いますが、ほんのうわべだけです。根本的にはエゴイスティックであるのに、「自己[エゴ]」がない。(32頁)

他人と親密に付き合うが「友情」のような深い関係はもたない。彼らは天下国家に何が起ころうと、関心がないし、何もしない。自分たちの年貢さえひどくなければ、自分の土地さえ守られれば、何が起ころうとしたことではない。ただ、「世間」をおそれ、基準からずれないようにしている。(33頁)

引用はすべて、柄谷行人『倫理21』(平凡社ライブラリー)からです。二千三年の刊行で、親本は千九百九十九年に出版されました。本書ではこのあと、円地文子の『食卓のない家』という小説に言及します。これは、息子が連合赤軍のような事件でつかまったけれども、父親は「世間」の非難にもかかわらず会社を辞職せず、「世間」とたたかう話です。

日本でしか見られないから日本社会はおかしい、となってしまっては論理の飛躍でしょうね。まず、世間さまの存否を全世界で調べた人はいません。柄谷はさすがにいわゆる「出羽守」ではなかろうと思いたいところですし、価値相対主義を否定する人でもなかろうと思っています。この状況を変えたい人はどうするべきか。さしあたり友人知人を説得しつづける、くらいしか思いつきません。あとはこの本を読んでもらう、とかですかね。

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

食卓のない家(新潮文庫)

食卓のない家(新潮文庫)

食卓のない家 上―上巻

食卓のない家 上―上巻

食卓のない家 下巻

食卓のない家 下巻


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ふつうの人生

 仮想空間で見つけた方の話です。その方は、昭和の日本ないし現代東アジア諸国の会社員であれば、定年退職していてもおかしくない年齢のときに、時間給労働のかけもちで生計を立てておられ、しかも、お子さんを大学へ進学させておいででした。なにやらどうも本業をお持ちのご様子ですが、それ以外にホテルの皿洗いや便利店の会計係、非常勤講師などを五つぐらい兼業していらっしゃって、びっくりするやら感心するやらでした。

 ウェッブログがあまり更新されなかったこともあって、そのかたのことはしばらく忘れていました。先日、ひさしぶりに探してみると、まだご健在でした。いまは常勤職です。で、勤め先を明かしておられたために、その組織を調べてみると、どうも労働法を遵守する気のなさそうな……。いわゆる「ブラック企業」のウェッブサイトに共通する特徴をひととおり備えているあたりは苦笑するほどでした。

 当のご本人は現状にきわめて満足していると言わんばかりの書きぶりなんですよ。自分の原点に戻ることができ、そして職務が増えて毎日とても忙しい(が、それがいい、とお思いになる人はブラック企業の従業員によくいます)。ですが、月の残業が100時間を超えるような職場はとてもじゃないが私には勤まりません。この職場に就業なさる前の日記ですと、ご自分は引く手あまたであるかのように読めたのですが、なんでわざわざ好きこのんでそんなところに身を落ち着けてしまわれたのか。

 思い当たる節がないわけではないのです。なんせ私は品性下劣な人間ですから、あくまで下種の勘繰りにすぎませんけど、「引く手あまた」というのも所詮はまわりの友人知人が社交辞令を述べただけだったのではないか、と。あるいはもっと下衆な妄想をすれば、この方ご自身が積極的にこの錯覚に引っかかっていかれたのではないか。

 過去の記事を拝読するに、自分の友人はこんなに活躍しているとか、自分のかかわった場はこれほどまでに高い評価を得ているとかの記述が妙に多いのです。よくいますよね。日本人選手の金メダル、日本人科学者のノーベル賞、日本企業の技術革新等々を「同じ日本人として誇りに思う」人や、「友達の友達がアルカイダ」の人。

 満たされない人生を送るのはつらいものです。どうやって折り合いをつけるかは人それぞれ。決して他人事とは思えません。

漱石人生論集 (講談社学術文庫)

漱石人生論集 (講談社学術文庫)



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意識を変えるのに効果があるから○○を導入しましょう!

そして、三つ目が「意識改革にはつながるよ」というタイプです。「たしかに英語力に効果はないかもしれないけど、英語に親しめるようになるよ。英語への抵抗感はなくせるよ。負担感も減るよ。そういう意識改革ができれば英語学習に積極的に取り組むようになって、長期的に見れば英語力はあがるでしょう」という考え方です。*1

 本当に意識が変わると結論づける研究結果があればいいんですけどね。

 或る業界のFC企業で新人研修を受けたとき、上司が「俺たちは直営本部の研修を受けて変わったんだ」と誇らしげに語りました。くわしい話を聞いてみると、なんのことはない、PDCAサイクルを回すようになっただけのことでした(御多分に洩れず、うまく回っていませんでしたが)。はじめてマネジメントというものに触れて、すっかりかぶれてしまったのでしょうね。そういう会社でしたから、まあいろいろとアレな問題を抱えていました。顧客を増やすためにとにかくビラを撒けと言われるわけです。

 資料を集めて、ビラ撒きによる集客はほとんど効果が無いことを会議で発表しました。この時間と経費を別のことに使いませんかっと。上層部に反対されました。曰く、諸君にとってビラ撒きは大変であろう、雨の日も風の日もご苦労である、しかしながら、つらいからこそ、ビラを受け取って来てくれた新規顧客のことを大切にするのではないか、と。皆さん、なるほどおっしゃるとおりですと納得し、私の提案は否決されました。ビラ撒きに効果はないけど、意識が変わるでしょ。

 私の通った中学校には、素手で便器を掃除すれば意識改革できる、と信じている教師がいました。
d.hatena.ne.jp

 掃除当番や給食制度といった日本型教育は道徳や規律に則る意識を高める効果があるとして、文部科学省が海外展開に乗り出しています。*2
「日本型教育の海外展開推進事業キックオフシンポジウム」の開催について:文部科学省

自由と規律―イギリスの学校生活 (岩波新書)

自由と規律―イギリスの学校生活 (岩波新書)



pluit-lapidibus.hatenablog.com

*1:出典はこちら bylines.news.yahoo.co.jp

*2:シンポジウムの資料を見ると、それだけでもないようですが、昨年の報じられ方はそういった論調でした。「日本型教育の海外展開官民協働プラットフォーム」でニュース検索なさってみてください。

イタリア文学でおすすめは何ですか〈第2版〉

長篇小説

サンドロ・ヴェロネージ『過去の力』(シーライト・パブリッシング)

過去の力

過去の力

  • 作者: サンドロ・ヴェロネージ,黒井博美,大谷敏子
  • 出版社/メーカー: シーライトパブリッシング
  • 発売日: 2008/07/26
  • メディア: 単行本
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 もう死にましたが、親族に大陸へ出征していた者がいます。一兵卒でしたから、もしかしたら人を殺す経験をしたかもしれないと思いますが、結局きかずじまいでした。戦時中に人食いをしていたことを奥崎健三に暴き立てられた人とその家族はその後どうなったのか、考えたくもありません。ヨーロッパでは、本作のような出来事がしょっちゅうあったんでしょうね。招待客がこちらの悪口を言い合っているのをインターホン越しに聞いてしまう気まずさ。翻訳者のかたは盲人のための朗読ヴォランティアをされているそうで、それもあってか訳文が読みやすいです。


カルロ・エミーリオ・ガッダ『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』(水声社)
honto.jp
 もとの邦題は『メルラーナ街の怖るべき混乱』で、今回の解説者が提示するのは『メルラーナ街のどたばた捜査劇』です。私なら『メルラーナ街のしっちゃかめっちゃか』にでもすると思いますが、そもそも誰からも頼まれていません。帯にジョイス・プルーストに比肩する、とあるけれど、ふつうはズヴェーヴォになされる形容ですね。凄腕刑事がとりかかる、いまいましい混乱、紛糾、ごたごたのもつれっ話。ピエトロ・ジェルミが映画にしています。(『刑事』。アリダ・ケッリの主題歌「死ぬまで愛して」が年配の方には有名ですね)江守徹は『スティング』を何度観ても或る場面でだまされるそうですが、私もこの映画版で同じ体験をしました。これは私の頭が悪いせいです。

刑事 ピエトロ・ジェルミ [DVD]

刑事 ピエトロ・ジェルミ [DVD]



短篇小説

武谷なおみ訳『短篇で読むシチリア』(みすず書房)

短篇で読むシチリア (大人の本棚)

短篇で読むシチリア (大人の本棚)

こちらに内容紹介があります。
www.msz.co.jp


ステファノ・ベンニ『海底バール』(河出書房新社)

海底バール

海底バール

 ご存知のとおり、笑いは文化に依存しがちです。イタリアは伝統的に愚か者を徹底的に愚弄する笑いが多く、個人的に辟易することもあるのですが、本作はそんなことがありません。それにもかかわらず、イタリアらしさが感じられて好きです。転失気のかおりを強めたいときは、ひよこ豆やレンズ豆なんですね。



戯曲

ジョルダーノ・ブルーノ『カンデライオ』(東信堂)

カンデライオ (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)

カンデライオ (ジョルダーノ・ブルーノ著作集)

 哲学や魔術、火あぶり以外でも活躍しました。マキアヴェッリの『マンドラーゴラ』などと同様に、今となってはこの猥褻さにかすかな嫌悪を覚えなくもないのですが、はじめて触れたときには、「あっ、こういうのもあるんだ」と驚きました。
ci.nii.ac.jp


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ジョージ・オーウェル「イギリスの階級制度」より

There is, however, another noticeable division in the middle class. The old distinction was between the man who is "a gentleman" and the man who is "not a gentleman." In the last thirty years, however, the demands of modern industry, and the technical schools and provincial universities, have brought into being a new kaind of man, middle class in income and to some extent in habits, but not much interested in his own social status. People like radio engineers and industrial chemists, whose education has not been of a kind to give them any reverence for the past, and who tend to live in blocks of flats or housing-estates where the old social pattern has broken down, are the most nearly classless being that England possesses.

「けれども、中産階級には顕著な区分がもうひとつ在る。伝統的な区分は『紳士』と『非紳士』だった。ところが、ここ三十年のあいだに、近代工業の要請を受けて、また、実業学校と地方大学によって、新種の人間が誕生している。この人たちは収入の点で、そしてある程度は趣味の点でも中産階級なのだが、自分自身の社会的地位にそれほどこだわらない。無線技士や民間の化学者といったひとびとは、受けた教育は過去に対してなんら敬意を払わせないようなものであるし、住みたがるのは集合住宅や公営団地(この手の場所では伝統的な社会生活の型が崩壊している)であるしで、こうした人たちよりも無階級に近い存在はイングランドにない。」(拙自由訳)


「過去に対してなんら敬意を払わせないような」教育とは、ラテン語、古典ギリシア語に関係しないものを教えることです。

 生産に関係ある科目、実践的科目を教えることは、下層階級に対して行うものであるから、「役にたたない学問」こそ、パブリック・スクールの正当なカリキュラムであったわけだ。ここでの教育は、「いかにして国の指導者になるか」とか「紳士の風格をいかにして身につけるか」を体得させることにあった。
 パブリック・スクールを出てから、オクスフォード大学やケンブリッジ大学に進むレールは敷かれてあるから、大学における教育も質的に同様だった。大学も紳士養成機関であって、学生たちも現在の大学生のように、「就職活動」のような「下品」な真似は絶対してはならなかった。強く要請されて、しぶしぶ高級官僚、判事や弁護士、陸海軍士官になったりするのが普通だった。
…イギリスの教育制度は、このような歴史的背景を持ち、紳士とそうでないものを識別するために存在した。そうでなければ、本格的紳士階級をめざす新興成金階級は承知しなかったのだ。*1

 対照的に、極東の島国では、学校の勉強や大学の学問は社会に出てから役に立たない、いった非難がまま見受けられます。近年は大学予算がどんどん削られて、大学教員の嘆きを目にする機会が多いです。大学関係者でない人はどちらかというとそうした状況に無頓着であるように見えるのは、やはり大学で学ぶことなど無益だと思われているからでしょうか。だとすれば、大学教員にしてみれば、教育の敗北ということになるのかどうか。仮想空間で私の目にする大学教員には、こういう人の指導の受けてみたいと思わされるかたが大勢いらっしゃいます。

 本文にあるように、二十世紀に入ってから、英国でも「実学」を学んで技術者になることを厭わない人が増えたようです。

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*1:山田勝『イギリス人の表と裏』(NHKブックス)、167~171頁

イギリス人の表と裏 (NHKブックス)

イギリス人の表と裏 (NHKブックス)